雨音

先週末は久し振りに雨音を聞きながら眠りについた。雨音が激しくて、何度も窓の外を覗いた。街灯が照らす部分に目を凝らすと雨の様子が良く分かった。雨が力強く真っ直ぐ降っているのを確認して、やれやれと溜息をついた。雨が降る度に春になってゆく3月と反対に、秋は雨が降る度に深まってゆく。雨音に耳を澄ませながら私はとうに忘れたと思っていたことを思い出した。アメリカ暮し1年目の雨期だった。この時期に雨が降るのは知っていたし、そんな雨の毎日にも自分なりに慣れたと思っていたが、それにしても降る続く雨に私は溜息をついていた。私が友人たちと共に借りていたアパートメントは一方通行の急な坂道に面した十字路に程近い場所にあって、私の部屋はその通りに面して在った。大きな出窓のある部屋で、私はその窓の真ん前に机を置いていた。昼間はよく陽が当たって暖かく、窓を開けると涼しい風が入る気持ちが良かった。そんな窓辺で手紙を書くのが好きだった。勉強もした。生涯の中であれほど勉強が楽しいと思ったことはなかった。何のことはない、単なる英語の勉強だけど、勉強したことが確実に自分の実となっていくのを生活の中で感じることが出来たから、勉強のし甲斐もあったというわけだ。私の窓からは道の向うの建物が良く見えた。特に目線を落とした辺りにある入り口部分が良く見えた。この建物に一体どの位の人が住んでいるのかは分からなかったが、一家族だけでないことは確かだった。其の建物にはイタリア人家族が住んでいた。年老いた夫婦と娘、そんな家族構成だった。この家族はいつも喧嘩をしていた。それが生易しい喧嘩でなくて、建物の外にまで聞えるような大喧嘩だった。喧嘩をして暫くすると大抵年老いた父親がひとり出てきて、道の様子を眺めるかのようにぽつんと入り口のドアの前に立つのだった。そうだ、あれは強い雨の降る肌寒い冬の日だった。今までに無い大喧嘩でついに近所の誰かが警察を呼んだ。喧嘩の内容は誰にも分からなかった。何故ならこの家族はいつもイタリア語で喧嘩するからだった。けれどもあまりに激しいので、これは大事に違いないとばかりに警察を呼んだ、そんな感じだった。通報を受けたこの界隈の担当者が車で駆けつけると喧嘩の声は直ぐに止んだ。あれほど凄い喧嘩だったのに。警察とは凄い威力である、と誰もが窓から首を出して驚いていたところ、警察官と例の家族が外に出てきた。何やら話をしているが雨音に遮られて私の窓までその声は届かなかった。何だろう、何だろう。でも大したことではなかったらしい。互いに手を上げて挨拶して、警察はあっという間に激しい雨の中に消えていった。そして皆の視線を感じた家族は肩をつぼめて建物の中に消えていった。少し経つといつものように老いた父親が出てきて、入り口の前にぽつんと立った。凄い振りの雨をずっと眺めている彼の姿を私は窓辺から暫く見守った。そんなあの日のことを思い出して、ふと思った。もしかしたらこの家族は大喧嘩していた訳ではなかったのかもしれないと。私たちは誰もイタリア語が分からなかったから、喧嘩に聞こえたのかもしれない。とにかく討論が好きで素直に首を縦に振らないイタリアの老人のことだから、そうだ、違う、そうだ、違うと些細なことを大きな声で言い合っていただけなのかもしれない。私がイタリアに住み始めた頃、誰もが喧嘩をしているように聞えた。でも喧嘩をしているわけではなかった。そういう話し方をしているだけ、大きな声で話し合っているだけだった。多分あの家族は本当は皆が驚くほど仲良しで、案外父親か母親の耳が遠くて、大きな声で話していただけなのかもしれない。今の私なら、あの時彼らが大騒ぎしていた理由が分かるのに。案外、パスタの茹で方が柔らかすぎるとか、靴下の片方が見つからないとか、そんな話だったのかもしれない。雨音を聞きながらそんな事を考えて、知らぬ間に眠りについた。

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コメント

No title

降る秋雨のようにしみじみとした良いお話でした。
読みながら私の頭の中には、大声のイタリア語や雨を見つめる老人やクルマから降りる警官などが、映画のシーンのように浮かんできました。
古いイタリア映画の・・・・

2010/10/20 (Wed) 03:59 | september30 #79D/WHSg | URL | 編集
No title

雨が降る度に秋が深まりますね。秋雨は色々なことを考えさせるのかもしれません。

雨の日もカメラを持ってお出掛けするようになったんですね?ふふふ。

2010/10/20 (Wed) 16:56 | camera-oscura #79D/WHSg | URL | 編集
No title

septemberさん、こんばんは。この家族の近所に住んでいた頃、私はまだイタリア語にもイタリア人にもイタリアという国にも関心も泣ければ縁もなかったので分かりませんでしたが、確かに今思えばあの情景は古いイタリア映画のようでした。そんな映画のように、この家族の思い出は少しづつ白黒化してきたような・・・。

2010/10/21 (Thu) 22:09 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集
No title

camera-oscuraさん、こんばんは。雨が降って辺りの樹木の葉がすっかり黄色くなりましたね。そんな様子を見ていると、自然と色んな想いが浮かんできます。こんなに頻繁に雨が降るのでは、雨の日はカメラを持ちたくないなどと言ってられなくなりました。これからは益々雨の日が多くなりますね。

2010/10/21 (Thu) 22:11 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集

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