後姿

日曜日は雨が降るらしい。そんなことを小耳に挟んだので土曜日の午後は海に行く予定だった。海へ行っても水に入る訳ではないけれど、波の音を聴きながら散歩などしたら素敵なのではないかと思ったからだ。波の音は良い。山の樹が風に揺れる音や麦畑や草原が風に吹かれて波打つ様子も好きだけど、海の波の音はこれらとは異なった良さがある。頭の中も心の中も無色になって静まり返る、そんな感じだ。9月の海を見るのはアメリカに暮していた時以来だ。あの町に暮らしていた頃はちょっとトラムやバスに乗れば海に行けたから、それが当たり前みたいに思っていた。海のないボローニャに来るまで気がつかなかったのは迂闊だった。ふと思いついて海を見にいけることはとても幸せなことなのに。人が少なくなった9月の海辺を歩く。昨晩はそんなことを考えながら心地よい眠りに就いたのだ。ところが急に予定が変わってしまった。酷く残念だったが、それならばと旧市街を彷徨うことにした。外は天気が良かったし、こんな素敵な日に家に閉じこもっている手はないと思ったからだ。不思議なものだ。9月になった途端に空気の色が違って見える。まだ日差しは強いし空も青いが、確実に何かが違う、そんな感じだった。日差しの角度のせいかもしれないし、湿度のないさらりとした空気のせいかもしれなかった。理由が何であろうと、確かに9月になったことをひしひしと感じた。Via Guerazzi を歩いていた、Strada Maggiore を目掛けて。いつも静かな通りなのだ。なのに何故だか今日は様子が変だった。と言うのは大きな車が何台も連なって駐車してあるし、人の種類もいつもと違うからだった。そうしているうちにこの先で映画撮影をしていることが分かった。そうだ、いつもと違う種類の人達なのだ、やはり。イタリア映画らしい、それ以外は何も分からなかった。兎に角人混みが嫌いなので私は其処を足早に素通りして、撮影隊を背にStrada Maggiore を歩き出した。いつもなら二本の塔に近づくにつれて混雑するのに、今日に限っては近づけば近づくほど人が少なくなった。そうして歩いていくとポルティコの下に腰掛けている老人を見つけた。その後姿が何か寂しくて、ひょっとしたらこれは例の映画の一場面で、何処かで誰かが隠れてカメラを回しているのではないだろうかとすら考えた。私は暫く老人の後姿を眺めていたが何時までも老人は動くことがなかった。その後姿は既に他界した自分の父親や舅に合い重なるものがあって、ぎゅっと私の心を締め付けた。
夜になって急に肌寒くなった。多分明日は雨が降るのだろう。海に行けなかったことは残念だったが、私は違うことを考えていた。深く黒い9月の夜空を眺めながら、今日老人の後姿を見て自分の父親と舅のことを思い出すことが出来てよかった、そんなことを。

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