幸運の貝

最近、火を使う料理をしたくなくてさっぱりシンプルなものばかり食べている。そのせいだろうか、少し体力が落ちたようだ。昼前に急に喉が痛くなった。そのうち溜め込んでいた暑さによる疲れのようなものが一気に噴出して、私は小動物のような気分になった。つまり弱い動物。たったの喉が痛くなっただけなのに。扁桃腺まで腫れなければ良いけれど。そんな訳で午後は色んなことに想いを巡らすことになった。私は弱気になるといつもこんなふうに想いを巡らす癖がある。アメリカに暮し始めた頃のことだ。まだ、相棒と知り合うずっと前の頃のことだ。私が友人達と一緒に暮らしていたアパートメントは、町の中心に程近い坂の中腹にあった。アパートメントの前の通りをひたすら真っ直ぐ行けば、海に辿り着いた。といっても海のすぐ近くに住んでいた訳ではない。でも海からやって来る白い霧の大群に辺りが覆われたり、坂道の上に立ってずっと向うの方に広がる海を見ると、確かに自分が海の町に暮らしているのだと確信したものだった。私は内陸の町に生まれ育ったので、海の町に暮らすことがとても素敵なことに思えた。ほんの時々、海へ行った。友人と一緒のこともあったが、ひとりでバスに乗って海辺を散歩することもあった。海辺には色んな貝が落ちていたが、中でも直径5cmほどの少しゆがんだ丸い形の白い貝が好きだった。表面には星が模られていた。まるで点線で誰かが意識的に描いたみたいな星だった。そんな貝が運の良い日にはあっちにもこっちにも落ちていて、それらを打ち寄せる波で奇麗に洗って大切に家に持ち帰った。これは幸運の貝。そんな気がしたからだった。見ているだけで何か良いことがありそうな予感の貝。それらを私は出窓の手前においてあった背丈の低い小さなテーブルの上に並べるのが好きだった。時々映画を見ていると海辺でこの貝を拾い上げる姿を見ることがある。すると私の心はきゅーっと締め付けられて、どうしようもなく今すぐあの海辺に戻りたくなるのだ。そんなことを思い出しているうちに気がついた。そうだ、あの貝はどうしたっけ。ひょっとしたら15年経ってもまだ開けていない箱の中に入っているのかもしれない。そうだと良いけれど。見つけたらまた窓辺に並べてみることにしよう。

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2010/07/07 (Wed) 15:38 | # | | 編集
No title

鍵コメさん、あの町には書ききれないほどの思い出があります。特にまだひとりだった頃、友人たちに囲まれて過ごした頃のこと。ひとり歩きも沢山したけど友人と肩を並べて坂道を上ったり下ったりして、本当に楽しかったです。気難しかったアパートメントの管理人とギターばかり弾いていた親のすね齧るもいい加減にしないといけないよと住人から言われていた息子、隣に住んでいた大学生達、やたら親切なパキスタン人。あの時住んでいたアパートメントにも沢山の思い出があります。15年も開けていない箱、まだ少しあります。相棒に関してはそんな箱が沢山あるようですよ。開けるのは楽しみで、ちょっと怖いような、どきどきするような・・・。

2010/07/08 (Thu) 23:04 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集

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