Banana

気持ちの良い月曜日となった。朝晩はまだ冷え込んで凍りつくけれど、昼間といったら8度にも上がって日差しが目に痛いくらいだ。例年ならばこんな天気も珍しくないが、今年の冬に限ってはこの快晴が、日差しが、特別な贈り物のように感じる。そのくらい寒くて、そのくらい太陽の光に飢えていた、様な気がする。ボローニャの町の半分は早くも春物を店先に並べていて、ウィンドウショッピングが楽しい頃だ。冬色はもう沢山、と言うかのようにラベンダー色や爽やかなクリーム色が散りばめられて眼を楽しませてくれる。寒いのもなんのその、と金曜日に女友達と待ち合わせて旧市街を見て歩いた。彼女と待ち合わせるのはいつだって二本の塔の下にある本屋の前だ。その日は時間よりほんの少し早く着いたのでショーウィンドウに飾られている本をひとつひとつ眺めていた。と、後方から声がした。Bananaだ。振り返ってみるとイタリア人親子が立っていて、声の主は恐らくは40歳前後の男性だった。小さな女の子を抱えている女性が答える。あら、新しい本かしら。そう言われてよく見ると確かに目の前には吉本ばななの本が並んでいて、お腹の大きい女性のシルエットが本の表紙を飾っていた。吉本ばなな。彼女の本を多くのイタリア人が愛読しているのを私は知っている。初めてそれを知ったのはボローニャに来て数ヶ月経った頃だ。相棒の友人が暇を持て余している私に話を持ちかけてきた。ねえ、私の子供達を時々見てくれないかしら。そう言われてもbaby sitter などしたことがないし、イタリア語だってあまり良く分からないしと断ろうとしたら、それでもいいから一度してみないかと強く誘われて彼女の家に行くことになった。子供達はまだ小さくて上の子は3歳、下の子はまだ2歳にもなっていなかった。子供達に直ぐに好かれたことに気を良くして、煽てられるままに子供達を見ることになった。時々だった。そうしているうちに私はローマで仕事することになり、子供達とあっけなく別れたが、1年後ボローニャに戻ってくると彼女に乞われて再び子供達を見ることになった。彼女の子供達と相性が良かったのだ。なに、定職がなかったので何でも出来ることはしようと思っていたのだ。それにしても子供達に大変好かれた。彼らの父親が帰ってきたので、さてそれではと帰ろうとすると、帰らないでくれと泣いて足にすがられたり、両親の都合と言うよりは子供達の要望で来てくれと頼まれたり。両親の複雑な気持ちは別にして、それはそれでなかなか楽しいことであった。ところでこの家には吉本ばななの本があった。彼女がとても好きらしく、大切にしていた。子供達の手が届かないところに置いてあるのは、まだ本の価値を知らない子供達に痛みつけられないようにとの配慮らしかった。一度彼女に言われたことがある。吉本ばななの感性はイタリア語に全くぴったりくる、と。そんなものかしら、と私が答えると、そうよ、本当にそうなんだから、と棚の上から本を取り出してページを捲った。ほら。そういって見せてくれたけど、その頃の私にそんなことが分かる筈がなかった。私は吉本ばななの本をまだ読んだことがなかったからだ。ある日、彼女が本をテーブルの上に置きっ放しにしていたらしい。目ざとく本を見つけた上の子供が表紙の裏に大きく母親の名前書いた。上の子は最近やっと字が書けるようになって嬉しくて仕方なかったのだ。それを発見した私は青ざめて、ああ、彼女が悲しむだろうと思いながらも多分母親が喜ぶだろうと思って名前を書いた子供を叱る気にはなれず、ただ溜息をつくばかりだった。彼女が帰ってくると子供は母親に本を持って駆け寄り、ほら、お母さんの名前を書いたのよ、と嬉しそうにそれを見せた。彼女は一瞬眼を見開いてショックを受けたようだったが、子供を抱き上げると有難うと言って子供の頬に接吻した。今までよりももっと大切な本になったと言って、私に笑いかけた。それがきっかけで私は吉本ばななの本を読むようになった。何時か彼女が言っていたイタリア語にぴったりくる感性の意味がほんの少し分かった気がした。勿論私が読んだのは日本語である。日本人作家の本をイタリア語で読むなんて、なのである。それは芥川龍之介をイタリア語で読むとひどく難しいのと同じなのである。ついこの間、掛かりつけの医者に私は三島由紀夫の本が好きなのよ、よかったら貸すけれど、とイタリア語版を目の前に出されて困ったばかりである。と、長々と色んなことを思い出しているうちに例の親子は既に何処かへ消えてしまい、向うからは女友達がやって来るのが見えた。お腹の大きい女性のシルエットが表紙の本に別れを告げて、女友達へと駆け寄った。

コメント

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2010/02/09 (Tue) 01:44 | # | | 編集
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鍵コメさん、コメント有難うございます。楽しんで頂けるのは書き手の一番の喜びかもしれません。これからもお付き合いお願いします。外はまた雪が降り始めました。ボローニャの春はまだまだ先のようです。

2010/02/09 (Tue) 22:25 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集
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yspringmindさんこんにちわ。
ばなな、かなり読んでいた時期がありました。素敵な思い出ですね!
奇遇にもおととい知り合いのイタリア人の方からイタリア語版ばななを頂いたのですが・・。もちろん昔読んだものだったのにもかかわらずさっぱりわからず・・。1ページでくじけてしまいました。

2010/02/10 (Wed) 21:00 | カナリア #79D/WHSg | URL | 編集
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カナリアさん、こんにちは。にもおととい知り合いからイタリア語版ばななを頂いたなんて、本当に奇遇ですね。いくら昔読んだものでも、イタリア語で読むとなると話は別ですよね。1ページで挫けましたか。それでは翌日も1ページで挫けてみてください。そうしたら何週間後には読み終えることが出来るでしょう。1日1ページでいいんですよ。頑張ってくださいね。

2010/02/11 (Thu) 21:02 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集

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