高貴な心

雨降りの土曜日。外に一歩も出たくない土曜日。もし今日の私が虚ろな気持ちだったらば、この雨にすっかり気が滅入ってしまっただろう。そのくらい冷たくて無表情の雨が天から糸をたらしたように次々と降り落ちてくる。窓からそっと外を覗くが、辺りを歩く人の姿はひとつも無い。それを確認してほっと小さな溜息をつく。安堵の溜息というと正しいかもしれない。私ひとりだけではなさそうだ、この雨で家に閉じこもっているのは。暫く苦悩していた。かといって落ち込んで何にも手がつけられないという訳ではなく、面白いことにいつも淡々としている私が更に淡々としていた。自分の体の中から魂だけ抜け出して、その魂が私を周囲からまるで他人事のように眺めているような感じだった。そうねえ、どうしたらいいのかしら。何か手伝えることがあったら言ってね。魂がそんなことを抜け殻の私に言ったりもした。こういう感じは生まれて初めてのことで、自分の中で何かが大きく変化しつつあるのではないかと不安に感じながら、願わくば良い変化であるようにと祈ったりした。私は今とても長い橋を渡っている、ような気がする。嬉しいのはそれが暗くて閉塞感に満ちた狭くて長いトンネルではないことだった。トンネルは嫌だ。先が見えなくて途方に暮れる。一体どの位歩けば外に出られるのかが分からない。前方に潜んでいる障害物も見えなければ、自分の足元すら見えない。そんな不安ってあるだろうか。考えるだけで恐ろしい。私が渡り始めた橋は長い。時間が掛かるだろうし、途中でいろんな人とすれ違うこともあるだろう。頑丈な橋ではなさそうだから少し足元が不安だけど、でも昼間ならば太陽の光を浴びて、天気の良い晩には降るような星と真珠のように輝く銀色の月を眺めることも出来る。風の日は風が私の頬を撫でてくれるだろう。途中で何故この長い橋を渡り始めたのか後悔することもあるかもしれない。だから、橋を渡り終えた日には後ろを振り向いて、よく頑張ったと自分を褒めてあげることが出来たらよいと思う。昨日の朝、そんなことを思いながら目を覚ました。身支度をして家を出た。車でまだ先週の雪が沢山残っている丘の道を走りながらロドリーゴのアランフェス協奏曲を聞いた。私がこの曲に出合ったのもう随分昔のことで、何も分からない子供だった私にはこの曲を好きだったけど良さを見出すことは出来なかった。それでも母と姉が繰り返しレコードを掛けたので体の隅々にまで染み渡り、曲の流れも何処でギターのソロが入るかも完全に近いくらい知っていた。ボローニャに暮らすようになって、ある日ふと思い出してロドリーゴのアランフェス協奏曲のCDを買い求めた。ある日突然、あ、と思いついたようにこの曲の美しさとか深さに気がついたからだった。数日前の朝、雪がまだ残るこの丘の景色を眺めていたら無性にこの曲をこの景色の中で聞きたいと思った。私が想像するスペインは焼けるような暑さと強い光がもたらす建物の壁にくっきりと映る影で、この雪景色にはどう考えても重なることはないけれど、きっと標高の高いグラナダの近郊にはこんな景色が存在するのではないだろうなどと考えたからで、事実こうして雪景色を見ながら耳を傾けてみるとぴったりくるのだった。言葉が思い浮かんだ。どんな時にも高貴で居よう。高貴とは身分が高いという意味ばかりではない。気品があるとか優雅という意味もあるけれど、私がありたい高貴とは精神的性の高い、潔い、凛とした気持ちの高貴。どんなことにも平然と構えていられるような強い心。高貴の心を忘れなければ、大風に橋が揺れても雨にさらされても、すれ違う人に意地悪を言われても、揺らぐことはないだろう。心が静かになっていく。身構えした不安の塊が開放されていく。いつもなら何かある度に後ろを振り返り、私は何故ボローニャに来てしまったのだろうと思うのに、今回の私はそうすることなくずっと先にあるであろう何かを見つめながら歩いているのはどうしてだろう。これはきっと良い変化が自分の中に生じているからに違いない。そう信じていけば良い。そのうち橋を渡り終えたら、この美しい曲が生まれた国スペインへ行ってみよう。そんな楽しみがあれば先にあるのは良いことだ。アランフェス協奏曲に耳を傾けながら私が少し強くて前向きな人間になっていくのを感じた。

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