隣人

夜になって雨足が強くなった。こんな季節の雨の晩は過ぎた様々なことを思い出しては考え込んでしまう。先週末、また熱を出した。今度は風邪と言うよりは疲れ、疲れは単なる体の疲れではなくて心の疲れからくるものらしかった。それで天気は抜群に良かったけれどひたすら眠ることにした。私には眠りが必要だったらしい。眠っても眠ってもまた眠ることが出来た。幾度目かの眠りの中で、私は昔のことを夢の傍らから見ていた。私は異文化に憧れる子供だった。異文化だけでなく、例えば異なった生活シーンや町並み、風景に関心を示す子供だった。子供の頃に見たテレビ番組の影響だろう。日曜日の午前にやっていた、日焼けした魅力的な笑顔の日本女性が飛行機に乗って世界中を旅する番組が好きだったから。あの頃、外国へ行くのは今ほど容易いことではなかったし、外国語を操る人だって今ほどは居ない時代だったから、彼女が特別輝いて見えたのは決して不思議なことではなかった。多分私の世代の人なら、一度くらいは憧れたに違いない。そしてそれから20年ほど経って私はアメリカで生活するようになった。全てが万事順調だった訳ではなかった。予期していなかった類の問題に何度も遭遇した。けれどそれでも私は幸せだった。当時の写真を見れば直ぐに分かる。私は何時だって自分でも驚くくらい大らかな笑みを湛えていた。あの頃ちょっと背伸びをしてノブヒルと呼ばれる界隈にアパートメントを借りた。背伸びしたとは言っても友人達との共同生活だったから決して贅沢で優雅な生活ではなかった。私の部屋には大きな出窓があった。古い、立て付けの悪い窓だったがとても気に入っていた。日当たりの良い部屋で、天気の良い日は冬でもヒーターなど必要がないくらいだった。私は出窓に海辺で拾った白い貝殻や幾種類もの小さなサボテンと球根の鉢を並べていた。右手の出窓からは隣の窓が見えた。隣には老人が住んでいた。いや、正確には老人ではなかった。弱々しくて痩せすぎだったから老人に見えたのだ。彼は病んでいたのだ。多分60歳をやっと超えたばかりだったに違いない。私の窓と彼の窓の間には小さな空間が設けられていて、彼は其処に植木を幾つも置いていた。病んでいて外に出られないのだろう、一日に何度か立て付けの悪い窓を開けて植木をいじったり水遣りをするのが楽しみだったようだ。彼はある日私の部屋のラジオから流れてきた歌を聴いて頷きながらいい歌だと言った。U2のOneだった。私もまた頷いていい歌だと答えた。それから彼は植木のひとつを手にとって君にあげるよと言った。私はそれを受け取って窓と窓の間の空間のもう少し私側に植木を置いた。ある夜中、窓越しに彼が植木に水をくべているのが見えた。どうしてこんな夜中にと思いながらも目と目があったので互いに手を上げて挨拶した。おやすみなさい、と。翌日幾ら待っても彼の姿が見えなかった。どうしたのだろう、具合が悪くて寝込んでいるのかもしれない。夕方私が外から帰ってくると、誰かが彼の部屋に出入りしているのが見えた。彼の友人だった。友人が部屋の中を整理していた。彼は何日も前に病院に運ばれて昨日ついに逝ってしまったと友人が言った。部屋はもう半分以上片付いていて、彼が本当に居なくなったことを語っていた。しかし私は夜中に見たのだ、彼が植木に水をくべているところを。そうして私達は挨拶したのだ、おやすみなさいと。友人が言った。彼は時々君のことを話していたよ、可愛い東洋の女の子が居るって。そんなことを友人の口から零れると、私は言葉も無く涙が零れるばかりだった。私が見た彼は幻だったのかもしれない。それとも彼は私に会いに来てくれたのかも知れない。幾ら考えても分からないけど、できれば会いに来てくれたのだと思いたい。私は眠りの中でそんな様子を眺めながらそんなことを考えていた。
夜に雨が降ると時々彼を思い出す。もう名前も覚えていない、ほんの小さな接触があっただけの隣人。でも、多分私達は良い隣人だったのだろう。うん、きっとそうに違いない。

コメント

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雨の夜には雨の想い出が・・・  こちらも今夜は雨が降っていて私がぼんやりと思い出していたのはあの時のボローニャの雨でした。濡れた赤い煉瓦の印象は強く心に沁みこんで離れません。その時に会った人のことも。

2009/11/03 (Tue) 06:06 | september30 #79D/WHSg | URL | 編集
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yspringmindさんへ。
こんばんは。
きっと、きっとそうだったのですよ。
夜に水はあげません。彼はyspringmindさんに会いに来たのですよ。
ご自分のことは分かっていらしたのでしょうね。
最期に一目会いたい人、それは家族でもなく友人でもなく
隣りの窓から挨拶するyspringmindさんだったんですね……。
素敵なお話しを聞きました、どうもありがとう。

ブノワ。

2009/11/03 (Tue) 12:41 | souslarose #79D/WHSg | URL | 編集
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雨戸を閉めてもどこまでも聞こえてくるような夜の雨でした。
弾けるような若さを生きていたyspringmindさんと窓辺で育つ植木達に、その人は何かを見ていたのかもしれませんね。
きっと、お互いに良い隣人だったのでしょうね。

どうぞお身体気をつけてお過ごし下さいね。お大事に。

2009/11/03 (Tue) 14:37 | camera-oscura #79D/WHSg | URL | 編集
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septemberさん、そちらも雨でしたか。そうなのです、雨の日には雨の日の思い出が、雪の日には雪の日の思い出が浮かんでは消えるのです。ボローニャの壁は雨に濡れると尚更赤みを増して印象的です。これからの季節は雨に濡れた赤い壁が寂しく見えることでしょう。苦手な季節の到来です。

2009/11/03 (Tue) 22:41 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集
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ブノワさん、こんばんは。私もきっとそうだったのだと思います。最後にひと目会いたい人がもしブノアさんが仰るように私だったのだとしたら、私は声を上げて泣きたいほど嬉しくて悲しいです。私はこれからも雨が降ると時々このことを思い出すのでしょうね。大切にしたい思い出です。

2009/11/03 (Tue) 22:45 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集
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camera-oscuraさん、強い雨でした。雨が日除け戸を打つ音が耳についてなかなか寝付くことが出来ませんでした。あのアパートメントに暮らしたころのことを思い出す時、真っ先に彼のことをが思い浮かびます。時々友人が訪ねに来る以外は人間付き合いのない彼にとって、毎日のように顔を合わす私は身近な存在だったのかもしれません。良い隣人、私達はそうだったに違いありません。

2009/11/03 (Tue) 22:55 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集

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