有意義な時間

Il Vignola (イル・ヴィニョーラ)とも呼ばれていたJacopo Barozzi の屋敷は約440年前に建てられたものだ。広場に面してどっしりと腰を降ろしたように存在する。この建物の正面玄関から入って直ぐ右手には老人達に丁度良い社交スペースが在り、その先の右手奥にはビリヤードの部屋、それから入って左手奥には地元料理を振舞うお食事処、その手前つまり玄関を入って直ぐ左手にはバールがある。前に来た時は玄関扉が閉まっていたので分からなかったが、どうやらここは町人達に気軽に利用されているようであった。社交スペースの椅子という椅子は老人達で塞がっていて、彼らは夢中になってカード遊びをしていた。ふと思い出した。昔、舅姑のご近所さんの奥さんがぼやいていた。うちの旦那は朝食を済ますと姿をくらます。昼食時間になると何処からともなく現れて、昼食が済んでちょっと昼寝をしているなあと思っていれば、いつの間にかまたいなくなる。一体何処に行くのだろう、よそで若い女と会っているのでは、と思ってある日後をつけていったらね、バールの奥でカード遊びに興じているじゃないの。次の日も、次の日も。ああ、良かったとほっとしたけど何だか腹が立ってねえ。と、60を過ぎても毎日孫の世話と家事仕事に忙しい奥さんが、買い物帰りの途中に会った私達にそうぼやいた。あの時は何の実感もなかったけれど、そうかこんな感じだったのかと分かったら、あのときの奥さんの悔しさが何となく分かったような気分になって笑いが後から後からこみ上げてきた。バールに行ってカフェを注文した。バールの店内は私の好みではなかった。もう少し何とかならないのか、と言いたくなるような内装だった。ところが出されたカフェを一口飲んで驚いた。美味い! と思った瞬間に口から声が漏れた。Buono! すると店の主人が顔を輝かせて、そりゃそうさ、モデナのカフェだからね、と言って胸を張った。すると私達の横に立っていた男性が、こいつのカフェを淹れる腕もいいけどね、やっぱりモデナのカフェだからね、と言った。ボローニャ県人はボローニャをひたすら自慢するがここもまた、モデナ県人はモデナを思い切り自慢するらしい。しかし本当に美味しいカフェであった。だから、カフェはモデナが美味しいと素直に同意すると、今度は店中のみんなが嬉しそうに顔を輝かせた。いいな、嬉しいことを素直に表情に表す人達って。私達は店の主人と客達に挨拶をして店を出た。さて、私達の本当の目的地はこの建物の奥にある美しい螺旋階段だ。La scala a chiocciola と呼ばれるこの階段を見なくて。これを見ずには帰れない。テッラ・コッタの階段がぐるぐると上まで続く。天井には美しいフレスコ画が施されていてそれを見ながら登っていくと自分が今何処に居るのか分からなくなってしまうので要注意だ。階段の途中には例の音楽院の入り口があり、開け放たれた扉から学生達の美しく弾力のある歌声が流れ出る。歌声は螺旋階段の上に下に反響して、一瞬オペラの中に迷い込んだような錯覚に陥る。それほど高さのある建物ではないからあっという間に最上階に辿り着き、そしてまたあっという間に地上階に下りてきてしまう。全くあっという間だけど、一瞬の夢を見るには丁度良いのかもしれない。美しいもの、歴史的に価値あるものを保つのには沢山の資金が必要だ。昔は町がサポートしていたようだが近年は殆ど個人負担らしい。だから沢山の歴史的建築物や芸術が朽ちてゆく、と通りすがりのシニョーラが言っていた。僅か数時間であったが有意義な時間を過ごしたようだ。沢山の宝物がポケットに入っているみたいに豊かな気持ちになってこの町を後にした。

コメント

No title

あのバールの内装は、何とも言えないですよね。
ここは確か、カソリック系のサークルの運営だったはずですので、バールも商売気のない時代遅れで素朴すぎる雰囲気のままなのだろうと理解しています。
面白い話をしたり、ビリヤード室からおいで、おいでと誘ってくれたり、愛すべきイタリアのおじいちゃん達に会える所ですね。
この有名な階段は修復が完成して綺麗になりましたね。大変な仕事だったと思います。
ここに来ると私も、らせん階段のせいなのか、フレスコの装飾のせいなのか、一瞬夢か現実かわからなくなる錯覚にとらわれます。

2009/10/27 (Tue) 09:53 | camera-oscura #79D/WHSg | URL | 編集
No title

camera-oscuraさんもあのバールに入ったことがありますか。カソリック系のサークルの運営にしてもかなり質素かつ地味ですね。商売気のない店、うん、そんな言い方がぴったりでした。それにしても美味しい。これは認めるところでして、次回も立ち寄りたいと思います。
螺旋階段の美しさは一瞬夢の中に誘い込んでくれますね。この町との出会いはエミリア・ロマーニャ州の素朴な美しさに気が付くきっかけのひとつなので、これからも時々足を運びたいと思っているんです。

2009/10/28 (Wed) 19:57 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集

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