彼女

ボローニャの町なかで店の外から中の様子を覗き込んでいた時のことだ。後ろを通り過ぎた人からほんのり甘酸っぱい懐かしい匂いがした。鼻をくすぐるようなあの匂い。あっと思って振り向くと栗色の巻き毛の女性だった。そんなことがある筈無い、そう思いながらもその人に歩み寄って横目でさりげなく顔を覗いた。色白の目鼻立ちの美しい人だったが、当然私の知っている懐かしい人ではなかった。その晩、雨音で寝付けなかった。だからなのか昼間のことを思い出して益々寝付けなくなっていた。あの匂い。あれはアメリカで出会った匂いだ。友達というにはあまりお互いを知らな過ぎたし考え方も好みも違っていた。でも、単なる知り合いという訳でもなかった。私は彼女より幾つも年上だったから彼女から色々頼りにされたのだと思う。何かがあると電話が掛かってきたし、彼女は私のアパートメントに立ち寄っては長々と話をして、また自分の家に帰って行った。私はといえば幾つも年上なくせに案外頼りなくて、強そうでいて脆かった。人の悩みを聞くのも励ますのも得意だったが、自分のことになるとてんで駄目だった。新しい土地に住んで3ヶ月目というのは色んなことがある時期らしく、私に様々な悩みと問題が生まれて少し疲れていた。そんな時、彼女特有の笑顔をみせて、大丈夫、きっと上手くいくから、と私を励ますのだった。彼女特有の笑顔というのは、口角を大きく上に持ち上げて奇麗に並んだ白い歯を見せる、若い頃のジュリア・ロバーツがよく見せたあの笑顔に良く似ていて、それを見る度になんと美しい笑みなのだろうと嫉妬抜きに思ったのだ。実際彼女はその美しい笑みの為に沢山の人から可愛がられていた。その彼女が、行き場所がなくなってしまったの、と言って大きな荷物を抱えて私のアパートメントに転がり込んだ。小さなSTUDIO に2人は少々窮屈だったけど、来てしまったものは仕方がない。次の部屋が見つかるまで。そうして彼女は即席のルームメイトになった。気楽な一人暮らしから小さなSTUDIOでの二人暮しは、結構楽しかった。多分それは彼女が私と全く違う哲学や思想の持ち主だったからだろう。へえ、そんな考え方もあるのか。ふーん、そんなことってあるのか。そんなことを何度も思った。それから彼女は時々言うのだ。とても感謝しているの、と。色んな感謝の種類があった。そんなことがあってもそれでも感謝するのか、と思うようなこともあった。全く不思議な人だと思った。その当時、私が自分を苦しめていた自分で作った窮屈な殻を破ることが出来たのは、多分そんな風にして彼女と一緒に過ごしたからだろう。あの頃の私は、TVよりもラジオを好んで聞いていた。96,5 COIT というラジオ局が好きで、部屋にいるときは何時もそれを聞いていたような気がする。耳障りにならないイージーな音楽が主で、一緒に歌うのに丁度良かった。ある日、帰ってくると例のラジオが流れていて、そしていい匂いがした。彼女の香水に違いなかった。何日か経ち、またあのいい匂いがした。何だろう、これは一体何の匂いだろう。懐かしい感じの良い匂い。我慢できなくなって彼女に聞くと、大抵の女性がそうするように香水の種類をあまり人に教えたくない様子だった。でも、あなたには本当に良くして貰っているから。そう言って小さな角ばった、エメラルドグリーンの蓋のついた小瓶を取り出した。見たことの無い香水だった。高級品ではないの、でもいい匂いでしょう。彼女は笑って、剥き出しになった私の肘にシュッと香水をかけた。いい匂いが私を包んで魔法にかかったような気分になった。数日後彼女は部屋を見つけて私の所から出て行った。その後彼女が私の部屋に戻ることはなく、私もまた別のアパートメントへと移っていった。私達は同じ町に4年も暮らしながら、電話で話すことはしばしばあっても片手に数えるくらいしか会わなかった。そして私はボローニャに、彼女は別の町へ。反対方向に移動してそれっきりだ。それでいて時々思い出すのだ、あの数日間に得たものの大きさ。自由な考え方と感謝の心。私が持っていると思っていて、実は持っていなかった大切なふたつ。雨音を聞きながら色んなことを思い出していたらすっかり遅くなってしまった。ねえ、私も感謝しているのよ。雨音に消されそうな記憶の中の彼女にそう言って目を閉じるとそのうち深い眠りについた。

コメント

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匂いというのは五感の中ではもっとも記憶に残るのだ、といつかどこかで読んだことがあります。その匂いから始まって、しみじみとしたとっても良い話になりましたね。でも、読んでいて思ったのは、匂いは視覚や聴覚と違って、想像するのが容易ではない。

2009/04/28 (Tue) 04:37 | september30 #79D/WHSg | URL | 編集
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アロマテラピーを少し習っていましたが、嗅覚は五感の中で、一番原始的な感覚だそうです。
他の感覚は、一度ある経路を通って、脳の判断する部分に伝わりますが、
嗅覚は、脳の判断部分にストレートに伝わるので、記憶に残りやすいそうです。
匂いや香りによって、思い出がよみがえるって、よくありますよね。
人間は1人では生きられない、起きたことすべてを受け入れて、感謝・感謝ですよね。。

2009/04/28 (Tue) 07:43 | hana #79D/WHSg | URL | 編集
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人生のある部分で深く関わりながら、そのまま別れてしまった人たちのことを私も時々思い出します。あの人たちの存在がなかったら、今の自分はない・・・そう考えると胸が一杯なります。
匂いによって大切な人を思い出された素敵なお話でした。

2009/04/29 (Wed) 03:54 | bake-cat #79D/WHSg | URL | 編集
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septemberさん、五感の中で匂いがもっとも記憶に残る・・・確かにそうだと思いました。面白いのは、私にとって匂いは視覚や聴覚よりも想像しやすいと言うことです。もっとも、septemberさんが想像しにくかったのは私の表現不足からなのかもしれません。この香水の匂いは、例えば高校生の頃の恋のようなわくわくする匂いです。と言ったらもっと難しいかもしれませんね。

2009/04/29 (Wed) 22:20 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集
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hanaさん、嗅覚は五感の中で一番原始的な感覚とは面白い表現ですね。興味深いです。私はとても単純な人間なので匂いに反応することが多く、例えば初夏に嗅いだ草の匂いとか、雨が降り始めたときの土の匂いとか、夏の夕方の匂いとか、それにまつわる思い出が山ほどあるんですよ。
彼女から教えて貰ったのは感謝することだけではありません。感謝の気持ちを相手に伝える大切さも教えて貰いました。相手に感謝を伝える行為は案外難しいけれど、とても素敵なことだと思うんですよ。

2009/04/29 (Wed) 22:31 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集
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ばけねこさん、私の人生には別れてそれっきりの人が沢山います。でもそれっきりだけど色んなときに思い出して繋がっているような気がします。あの時は何の変哲も無い普通の関係、普通の生活の一部だったのに、後で思い出すと色んな大切なことに気がつきますね。私の人生は平凡でありながら様々なことが詰まってますが、どんな時も一人出なかった、私の傍に誰かの存在があって色んな刺激と影響を受けてきたのだと思うととても貴重な特別な人生のようにも思えます。

2009/04/29 (Wed) 22:36 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集
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人って会っている時間や、話している時間そんなものはあまり必要ない様に思いました。心の中にずっと残るその人の事はとても大事で、とても心地よくて。目を閉じてその人を想うだけで、その時に戻れる自分がいる。そんな女性、忘れられない女性が心の支えだったりする。そして思い出は思い出という体にしみ込んでいる全ての感覚で甦って来るのだと。。。

2009/04/30 (Thu) 04:22 | vruocculu #79D/WHSg | URL | 編集
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vruocculuさん、その時に分からなくて後から色んなことが分かるのが私です。そうして自分と関わった人々を考えたり感謝したり、疑問を投げかけたり。私は人と会っている時間、話している時間を大切なことと思っているんです。そうやって人間関係とは深まったり広がっていくものだと思うからです。ただ、離れ離れになってもう会えない人が居ることも確かです。そういう人たちとはこんな風に時々思い出して接するしかないんですよね、残念ながら。

2009/05/01 (Fri) 15:16 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集

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