彼女流

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暑い日が続いている。一昨日の暑さはどうだ。道を歩きながら、息苦しさを覚え、幾度も屈みたい衝動に駆られた。身体の何処かが悪いと言うよりも、空気の重さ、吸い込むのも嫌になるような熱した空気が原因だ。だから昨日は思い切り涼しい装いにした。白い木綿の袖なしに、綿麻の緩いパンツ。足元もどうせならサンダルにしたかったが、それではあまりにリゾート風なので白いモカシンを素足で履いて家を出た。案の定暑い一日で、気温は上がる一方だった。ところが午後も3時を回ると、向こうの空が暗くなりだした。向こうとは、南の方。アペニン山脈の方角だ。職場の辺りも大風が吹いて、人まで飛ばされそうだと思ったほどだ。此れは雨が降るに違いない。そう構えていたのに、遂に一滴の雨も落ちてこなかった。夕方職場を出てバスに乗って旧市街へ行くと、それはそれは空が黒く、今にも雨降りになりそうだった。吹く風は涼しく、まるで夏の終わりのようだと思った。

風が強くて旧市街に埃が舞う。しかしサングラスとマスクをしていれば大丈夫。暑い夏場にマスクをするのは苦痛と私は毎日ぼやいているが、昨夕はマスクに感謝した。行き先は先日トップスを縫ってくれた人の店。あの白い麻のトップスは着心地が良く、涼しくて、今夏一番の気に入りになった。それで同じ型紙でもう一枚、と注文しておいたのである。白いパンツに合わせる為の、涼しげで気分が良くなるような色で、と。店主である彼女が言うには、薄緑水色の麻地が丁度ある。サンプルが手元に無くて見せることが出来ないけれど、あなたはきっと気に入る筈だし、とても似合うと思うのよ、との彼女の言葉を信じての注文だった。随分と彼女のセンスを信用したものだと、色サンプルも見ないで注文する自分に驚きながらも、彼女に任せておけばよいものが出来上がるような予感があった。店で彼女が身に着けている衣類は彼女の作品で、シンプルでラインが美しく、布地も良く吟味されているからだ。さて、風に煽られながらポルティコの下を歩いていたら、店の前に彼女が、恐らく知人なのだろう、お洒落な男性と話をしていた。黒い麻のドレス。袖の無い、膝丈のドレスはベルトでウエストを絞っていて、そんな装いが似合う彼女は映画女優のようだった。甘い印象のデザインなのに大人っぽい。こんにちはと声を掛けたついでに今日の装いを誉めると、彼女はとても嬉しそうだった。仕上がったものは他の商品と一緒にハンガーに掛けられていた。想像した通りの涼し気な色で、色サンプルを見ないことには決められないわ、などと煩いことを言わずに注文して良かったと思った。何しろ彼女は近いうちに夏休みに入るのだから。もたもたしていたら、店が閉まる前に受け取ることは出来なかったに違いない。彼女は服を包みながら、此の店を畳んで10月頃にオンラインショップを立ち上げるのだと言った。旧市街の此の店の家賃が高いからだろうか。それともあまり繁盛していなかったのだろうか、色んなことを思い巡らしていたら、彼女の方から答えをくれた。店に居ると縫う時間がないのだそうだ。彼女にとって此の店に置くものは作品。画家が絵を描くように、彼女にとって彼女が手掛ける衣類は作品なのだと言った。大量生産などしない、一枚一枚自分がミシンを踏んで縫う作品。店があれば私のような通りがかりの人も足を止めて購入していくけれど、肝心の作品を生み出す時間がない。それが一番の問題だったと言う。成程、と頷きながらも私がこの店が好きなのは、自分のサイズに仕立ててくれることだった。だからオンラインでは購入することは無いだろうと遠くの方をぼんやり眺めている私に、私の心を見抜いたように彼女は言った。オンラインショップで気に入ったデザインを見つけたら、アポイントを取って彼女のアトリエに行けば、試着もできるし布地も選べる、長さの調整もできる、と。成程。この場所から店が消えるのは残念だけど、それも面白いだろう。今風と言うよりは、彼女流だと思えばいい。オンラインショップを立ち上げたら連絡をくれることになった。今から大変楽しみである。私がこれほど彼女の店や作品に思い入れがあるのは、勿論作品が良いものだからと言うこともあるけれど、私が無理せずに手を出せる私だけの一枚を作ってくれるからと言う理由と、彼女のような人が、自分の作品に拘り乍らコツコツとやっているのを応援したいと言う理由でもある。商人でもなければ職人でもなく、アーティスト。若い彼女が何処まで頑張れるか、気に入りの一枚を縫って貰いながら、しばらく見守ってみたいと思う。自分でミシンを踏んで自分の衣類を縫った時代は遠い昔のこと。私はそんな喜びを手放してしまったけれど、彼女がずっと掴み続けていればいい。そんな風に思っている。

家の最寄りの停留所でバスを降りて驚いたのは、つい先ほど雨が降ったと言わんばかりにアスファルトが黒く光っていたこと。相棒の話によればうちの辺りで突風が吹いたそうで、テラスの大きな柚子の鉢植えが倒れてしまったとのことだった。それは心臓に悪い話だった。うちの柚子の樹は只今23個の実を付けているからだ。ピンポン球ほどの大きさで、濃い深緑色でとても堅い。後ふた月もしないうちに収穫期を迎えるに違いない柚子の樹が倒れてしまったなんて。相棒が注意深く樹を起こして、もう倒れぬようにテラスの柵に括り付けたそうだけど。ショックで口もきけぬ私に、相棒は神妙な表情で話す。大丈夫。実はひとつも捥げていないから。ちゃんと数えたから。23個、ちゃんとある。ふふふ。凄いな。結婚して27年。初めての以心伝心だった。




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マダムKenwan

ものづくり、自分の好きなものを作って、それを人が喜んで買ってくれて、それで暮らしていけるって、素敵ですよね。手前味噌ですが、私の夫もウィーンに来て、ほぼ30年、それは、ずっと山あり谷ありで、他所様が見たら「たかが知れたへっぽこ」ですけれど、筆を折らずにこれたのは、仕合わせだったと思います(終わりまでこのまま行きたい)。

柚子がベランダに23個ですって!!
やっぱり、南の国なんですね。
  • URL
  • 2020/08/01 20:31
  • Edit

yspringmind

マダムKenwanさん、こんにちは。好きなことをして、好きなものを作り上げて、買う人が喜んで。此れって言うと簡単ですが、才能とか運とか、様々な要素が上手に組み合わないとダメなんですよね。
ご主人が、山あり谷ありとは言いながらも筆を折らずにやってこれたのは、本当に素晴らしいこと、そして簡単なことではないと脱帽しました。此れで私が応援する人がもう一人増えました。お店の彼女とマダムKenwanさんの画家のご主人。
ところで柚子が育つと言うことは、南国と言うことなんですね。あはは。言われるまで全然気が付きませんでした!
  • URL
  • 2020/08/02 19:27

ブノワ。

yspringmindさんへ。
ふふふ……初めてって言うことはないハズです(笑)
是非、柚子の実に白のマジックで番号を振ってください(笑)
そう、接客していたら作る時間がないですね……。
今、何でもオンラインになって来ていますが、
彼女なりに模索した最善なんですね。
でも、アポイントでまた合えるなら一緒じゃないですか!
麻は本当に素敵です。僕も大好き!この時期は麻の開襟シャツばかりです。
お気に入りを彼女に送って縫って貰いたいくらい!
yspringmindさんが本当に羨ましいです。

ブノワ。

micio

こんにちは。
yspringmindさんのブログに度々登場するモカシン。靴を見るセンスが鋭いyspringmindさんだから、どんなに素敵な靴だろうと、色々想像しています。笑
柚子といえば、相方のお父さんが家のお庭にジャングル(と私は呼んでいます)を作っていて、日本のお茶の木の種や、柚子の種が欲しいと言っていたので、クリスマスプレゼントとして彼に持って行っています。
柚子は芽が出たところを写真で送ってくださったのですが、実がなるまでさて、あと何年かかることでしょうね。
  • URL
  • 2020/08/03 18:06
  • Edit

yspringmind

ブノワさん、こんにちは。あ、本当に相棒とは以心伝心が無いのです。思うに以心伝心は日本特有のもので、よほどの人でない限り言わずに伝わるなんてことは無いと私は思うのですよ。
ところで柚子に番号をふる・・・実に直接書くよりも番号札でも蔓下げましょうか。でもそんなことをしたらきっと相棒は訊く筈です。いったい何やっているの?と。
今の世の中何でもオンライン。あーあ、彼女までオンラインなのかと初めはがっかりしましたが、確かに作るのが好きな彼女には作る時間がないのでは本末転倒と言うことなのでしょうね。秋はどんなデザインがあるのでしょうか。今からオンラインが立ち上がるのが楽しみです。
  • URL
  • 2020/08/03 22:08

yspringmind

micioさん、こんにちは。この白いモカシンは何てことの無いTOD'Sのモカシンです。定番商品でシンプル極まりない。但し履き心地は抜群。だから吐きつぶしては同じ物を買い、此れが3足目です。私は靴には妥協が出来ないんですよ。
ところで柚子。うちの柚子は種を植えて芽が出たものを友人に分けて貰ったものですが、高さ10センチほどの苗を貰ってから8年経って実がつくようになりました。気長にのんびり構える必要ありです。彼のお父さんが庭に植えるのならば、もっと早く実るかもしれませんね。やはり地面は偉大なのです。
  • URL
  • 2020/08/03 22:17

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