乗りこんだ船

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夏の空を見て、ふと思うことがある。子供の頃は自分がこの年齢になるとは思ったことすらなかったこと。思わなかったというよりは、想像出来なかったという方が正しいかもしれない。目の前にあることだけで精いっぱいだったのか、目の前にあることが全てだったのか。その両方だったのかもしれない。兎に角今自分が想像していなかった年齢になり、人生とは何と曲がり角の多いものなのかと思う。人生がまっすぐだと思っていたのは20代。アメリカへと飛び出した頃は、そんな風に思っていた。それが風向きが変わり、自分が乗り込んだ船の向きが変わった。私は好きだったアメリカを後にしてボローニャに暮らすことになったのだ。

アメリカに居た頃、私は2度引っ越しをした。一軒目はダウンタウンの坂道に面した赤く塗られたタイル張りの建物で、ひとり暮らしだった。そこには数か月暮らしただけで、更に坂の上の方に日当たりの良いアパートメントを友人と借りた。生れて初めてのアパートメントシェア。他人と一緒に暮らすのは難しいと思っていたが、始めてみれば簡単だった。その次は相棒のフラットに移り住んだ。フラットには相棒の他にイタリア人女性もいて、私達は3人の共同生活だった。イタリア人女性の名はブリジット。金色のショートヘアにスレンダーな長い手足。声が高くて、彼女が部屋で長電話をしているとドアが閉まっているというのに煩くて眠りにつけなかった。ある日、皆が揃って食事をしている時、モッツァレッラの話になった。確か彼女が食べたいと言いだしたか何かで、それに対して私が言ったのだ。私はモッツァレッラは好きじゃない。もっと美味しいものだと思っていたけれど、先日食べてがっかりした、と。すると彼女と相棒は顔を見合わせて、一体何処で食べたのかと訊いた。イタリア人街にある、あの店で買ったのだと言うと、ふたりは頭をぶんぶん振った。先に口を開いたのは彼女。Cara(あなた)、と彼女は誰に対してもそう言って話しを始めるのだが、兎に角、あなた、それは間違えたものを食べている、あの店に置いてあるモッツァレッラはモッツァレッラという名の全く違う代物よ、と言うではないか。どういうこと? 私が目を丸くして聞き返すと、ああ、だから外国人は困る、そんなことが分からないなんて、と彼女は脇に居る相棒に早口で言いながら、あなたの食べたものはモッツァレッラではないのよ!と言った。狐に包まれたような気分とは、ああいうことなのだろう。しかし其れも翌夕、彼女が夕食にと何処かで入手したモッツァレッラを小分けして私の目の前に差し出して納得した。これがモッツァレッラ!美味しい、美味しい、と喜ぶ私を見て彼女も相棒も安心したようだった。あんなものがモッツァレッラだと思われるのが大そう不服だったのだろう。翌年だったか、相棒と私が結婚すると、彼女は隣のフラットに越した。少し経つと彼女の母親がイタリアの、フォルテ・デル・マルミから、美味しいものを沢山鞄に詰めてやって来た。ある晩、相棒と私は夕食に招かれた。母親が飛び切り美味しいリゾットを作るからとのことだった。中に入る前から分かっていた。美味しいものがあることを。何故なら共通のテラスは私達のキッチンと彼女のキッチンを繋いでいて、小さな窓からいい匂いが零れていたからだ。案の定、母親が用意した食事は美味しく、そしてブリジットがナパのワイナリーから調達した赤ワインは飛び切りだった。ふた皿目が下げられた時、テーブルの真ん中にドカンと大きなチーズの塊が置かれた。それはパルミッジャーノ・レッジャーノというたいそう美味しいことで有名なチーズだった。ブリジットと相棒は、母親がどうやってこんなに大きいチーズを空港で取り上げられずに持ってくることが出来たのだろうと興奮した。私はと言えばこの良く熟成したチーズの匂いが臭くて、遠慮せずに手を出しなさいと薦められながら、私はこの匂いが苦手だからと言って手を出すのを躊躇った。すると3人が顔を見合わせて、こんな美味しいものを嫌うなんてと驚いた。イタリア人は自国の美しいものや美味しいものを称賛することに長けているが、中でもアメリカに暮らすイタリア人は表現するのが上手い。此れはイタリアの宝石とも呼ばれるチーズなのよ、食べてみなさい。ブリジットにそう言われながら、遂に手を出さなかった私は、今ならそれが実に馬鹿げたことだったと思えるのだが、あの頃は、彼女は大げさだなあ、などと思ったものだった。
私が乗り込んだ船の向きが変わり、好きだったアメリカを後にしてボローニャに暮らすことになったのを幸運だったかどうかは分からない。でも、ひとつだけ言えるのは、食文化豊かなイタリアに暮らすことになったのは決して不運ではなかったということだ。美味しい文化、万歳。相棒に聞こえないように、小さく言ってみようか。

目が少しおかしい。今夜は満月なのに、欠けて見える。此れは大変。眼科へ行かなくては。と思ったら、今夜は月食なのだそうだ。しかも75分のハイスピード月食。ぐんぐん細くなっていく月に、一体どれほどの人が気付いているのだろう。え? 月食であることを知らなかったのは私くらいだって? ふーん、そんなものかしらねえ。




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