格好よくいこう

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火曜日は雨で始まった。想像するに雨は夜中に降り始めたらしく、朝起きて窓の外を眺めたらば既にじっとりと地面が濡れていた。起き抜けに窓の外を眺めるのが私の習慣で、いつの間にか相棒や猫の習慣となった。しかし彼らの場合は単に外を見るだけで、私のようにこの雨が一日続くのだろうかとか、雨で幕開けの一日は思いやられるとか、そんなことまでは考えないらしい。実に外を眺めるだけだ。それを私は羨ましく思う。何故なら私はいつだって起き抜けの雨に浮き沈みして、実に面倒臭いのであるから。子供の頃からそう。多分これからも変わらない。

旧市街の小路を歩いていて、目に留まった、ショーウィンドウ。チェックの木綿の服。昔、私が好んで着ていたような。着心地が抜群に良くて、自分らしくいられそうな服。だらりと長く着るのではなくて、膝上10センチか15センチで着るのがいい。
子供の頃は母が姉と私の服を縫ってくれた。こんな感じのがいい。こんな色のがいい。丈はこんな感じで、後ろはこんな風で。私達はいろいろ注文して、母は一生懸命考えながら作ってくれた記憶がある。母は自分の服を知り合いの仕立て屋さんに頼んでいたから、時には母にくっついて行き、母が持ち込んだ生地が余りそうだと分かると、残りの生地で私の分も作って貰った。母と揃いの生地。でも母の服とは違う印象の服。あの頃から私は生地とか、素材とか、そう言うものに大変興味をもつようになった。だから母にくっついて生地屋さんに行くのは兎に角楽しくて仕方がなかった。子供だった私には生地屋さんが埃っぽくて仕方がなかった。それは決して店が埃まみれだったわけではい。布地を選んでこれを何メートルと母が注文すると店の人が大きな良く切れる布地専用の鋏でじょきじょき切ってくれるのだが、その時に糸くずが落ちてくるのだ。それが子供の私には埃っぽく感じたという訳だ。多分、子供にだけ感じられることで、母や店の人にわかるまい。私が十代になると私は自分で服を縫うようになった。自分で型紙を作って自己流に縫って。生地屋さんで生地を選ぶのも、型紙や縫う作業も大変楽しかったし、それ以上に自分が身に着けて外を歩くのが嬉しかった。誰も同じ服を着ていない。オリジナルだ。その熱もいつか覚めて、私は服作りをしなくなった。時間的な問題よりは、パッションを失ったと言ったらよかっただろう。なのに店先で気に入った服を見つけては縫製が良くないとか、生地の素材が良くないとか、ボタンの趣味が悪いとか、気になってならぬ。ならば自分で縫えばいいではないかと自分に問うが、私にはもうそのパッションはこれっぽっちも残っていなかった。そういう訳で気に入った服を見つけても、なかなか手を出せない。その代わり良い素材で丁寧に作られたものだと、忘れることが出来なくなる。幸か不幸かここ最近は、気に入るものが見つからない。これでよいような気もするし、残念な気もするし。それでこのチェックの服は、自分好みだが流石に手が出ない。若い人に譲ることにしよう。しかしこんな革のジャケットと合わせるなんて考えてみたこともなかった。格好いいなあ。こんな装いにはどんな靴が合うのだろう、素足にモカシン、それとも素足に先のとがったシンプルなパンプス、はたまたスニーカーと言うのもありか、などと思いながら店の前に佇んでいたら、背後に長い髪がくるくると巻いた若い女性がふたり立って、格好いいわねえ、ちょっと店に入ってみようよ、と言って店の中に吸い込まれて行った。そうか、やはり格好いいのだな。自分で着ることはないけれど、何だか嬉しくなって足取り軽く歩き始めた。美しい服も好きだけど、格好いいのがいい。何時までも格好いい女性でありたいと思う。

長いこと、心の中に抱えていた心配事に一区切りがついてほっとしたら、どっと疲れが出た。ストレスフルだったことは気付いていたが、此れほどのストレスだったとは、と驚いている。疲れがナイアガラの滝のように身体の外に流れ出ていくのを感じる。出るだけ出てしまえばいいと思う。今は辛いけれど、そのうち疲れから解放されて元気になるに違いないから。テラスのジャスミンの花が咲く頃には、きっと。




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