雨と第三の男

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遠くで雷が鳴り響いている。気温が上がりすぎたヴィエンナは、今夜が峠なのかもしれない。そのうち、ザーッと雨が降り出すだろう。

私が滞在しているホテルは、旧市街とされる地区ではない。旧市街をぐるりと取り囲む環状道路を走るトラムのひとつが南へと走っているのだが、それに乗るとあっという間の界隈にある。ホテルも前の通りをトラムが行き交うから、窓を閉めていてもその音が聞こえる。ボローニャには無いタイプの音。だから到着した日は耳につく。かといってそれが嫌なわけではない。その証拠に、そうと知っていながら3度もこのホテルを使っている。嫌いなどころか案外好んでいるのかもしれないとすら思う。窓を開けてトラムが窓の下を通り過ぎるのを眺めるのも好きだ。トラムと言うのは何か異国情緒のある乗り物で、どの街へ行ってもトラムを見つけると訳も無く飛び乗りたくなる。そして自由自在にトラムに乗れるようにと、滞在日数分のパスを購入する。トラムさえあれば怖いもん無し。だから滞在場所が便利な旧市街でなくても良いと言うわけである。結局ホテルの場所を決めたのも、トラムが前を走っているからのようなものだ。もし相棒が一緒だったらば、トラムの音が煩いじゃないかと言うだろうか。それともサンフランシスコに住んでいた頃のことを思い出して、トラムの音を懐かしむのだろうか。
トラムが好きだと言いながら、ヴィエンナの街で私は降りる場所をしばしば間違える。自信満々で降車リクエストのボタンを押して、自信満々でトラムを降りるくせに、背後の扉が閉じた途端、しまった、此処ではなかった、もうひとつ先だった、と気が付くのだ。何しろ私の旅はあまりオーガナイズされていなくて、自分の直感だけで物事が進んでいる。地図を持っているくせにあまり確認することもないし、トラムを降りる場所にしたって、確かこの辺だった、みたいな不確かなものばかりだ。だから一人旅がいいのかもしれないと思う。連れが居たら、いい加減信用を失っていただろうし、その連れが相棒だったならば、既に喧嘩のひとつもしていただろう。今日もそんな風にしてトラムを降りる場所を間違えて、次のトラムを待っていた。後から美しい栗色の髪の女性がやって来て、少し離れた場所に立った。崩れた感じはなくて、かといって昔の学校の教師のような固い印象も無い。何処かでこんな感じの人を見たことがあると考えていたら、トラムに乗り込んで、ガタン、と走り始めたところで思いだした。相棒の、若い頃の恋人。
アメリカに暮らしていた頃、古い写真を整理していたら美しい女性の写真が出てきた。相棒が写したらしい肖像写真だった。綺麗な人ね、と訊ねるでもなく言うと、随分前の恋人だ、ヴィエンナの女性なんだ、と相棒が言った。相棒は私より年上だから、私が知らない時代があって当然で、それをとやかく言うつもりはさらさら無い。ただ、ヴィエンナの女性という言葉が心に引っかかり、それがどんなことを意味しているのだろうと長いこと考えていたことがある。美しいとか知的とか以外の意味があるのではないかと。あれから20何年も経って、こうしてヴィエンナの街を歩いたり、古い本を読んだり、人から話を聞いているうちに少しだけ分かったような気がする。それはある時代のヨーロッパを通過人達に共通するようなもので、そういう人達にしかわからないようなことなのかもしれない。そんなことを考えるようになったのは、第三の男、と言う映画のせいかもしれない。戦後のヴィエンナを舞台にしたこの映画を多くの人が高く評価していて、私も此れは作品として価値の高い映画だと思っている。ただ、とても微妙なのだ。そういう時代が本当にあったと言うことが。カフェ・ブダペストという映画があるけれど、此れも同じように微妙な気持ちが残った。私の知らない時代。でもそんなに昔のことじゃない。イタリアだって70年代は色々あった。人々が同じように安定して暮らせるようになったのは80年代のことらしいから。君は平和な国に生まれて育ったからと、相棒と知り合ったばかりの頃に言われたことがあるけれど、本当にそうなのかもしれない。そして平和な国に生まれ育ったことを、幸運に思うのだ。
そんなことを考えているのは、ヴィエンナの旧市街の外に、第三の男ミュージアムというものが存在して、それを是非見たいと思って訪ねたからだ。もっとも14時オープンのそのミュージアムは14時きっかりに行かないと中に入れてもらうことが出来ないらしく、15時に行った時は、扉は硬く閉ざされていて、扉を叩こうが何しようが、中から人が出てくることは無かった。それでもその雰囲気はミュージアムの外観を見て伝わってきた。古い建物で、あまり手入れはされていなくて、何か胡散臭いような、秘密めいているような。中に入りたかったような、入ることが出来なくてよかったような。

雨が降った。窓を開けてみたら路面が黒く光っていて、それを橙色の街灯が照らしていた。袖なしを着ているのに、まるで晩秋のようだと思った。昨日の明るい陽気な晩とは違う、もう夏の峠を越えてしまったような、そんなヴィエンナの、雨の晩だ。




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コメント

No title

こんにちは。ヴィエンナがウィーンのことだとようやく分かりました。人名でも読み方が異なるとイメージも異なるのですね。ヴィエンナは、イタリア国内のどこかの山奥の街のように思っていました。ところでヴィエンナでは、どのような食事をなさっているのでしょうか?

2017/08/11 (Fri) 23:56 | Via Valdossola #P6wRKz4w | URL | 編集
Re: No title

Via Valdossolaさん、こんにちは。何故だかウィーンよりもヴィエンナの方が耳触りがよく、近年はヴィエンナと呼ぶことが多くなりました。習慣的なものかもしれません。イタリアではヴィエンナ呼ぶのが通常ですから。それでヴィエンナでの食事ですが、そうですねえ、地元の人たちが食べているものをまねています。スープとか、肉とか、グリルしたソーセージとか。案外いけます。

2017/08/13 (Sun) 16:33 | yspringmind #- | URL | 編集

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