Mr. Feeling good

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今日のヴィエンナは暑い。Mr. + Mrs. Feeling goodの彼が言ったとおりだった。このところヴィエンナは涼しいけれど、明日辺りから暑くなるらしいんだ、と言っていたのは昨日午後のことだった。この、Mr. + Mrs. Feeling good、というのは旧市街からホテルへと歩いていた時に見つけた小さなカフェの名前だ。面白い名前なので興味を持って店に足を踏み込んでみたのである。丁度喉も渇いていたし、何か冷たいものでも飲もうと思って。実はもうひとつ私の関心を引いたものがある。店の前に立てかけられた看板だ。それにはBEST CHEESE CAKE IN THE CITY とあった。それが結構下手な字なのである。誰かが慣れぬ手つきでペンキで書いてみたけど、うーん、なかなか難しいもんだな、ま、いいか、こんなもんで、と開き直って店の前に立てかけたといった感じで、私の笑いを嫌でも誘うのである。店の前のテーブル席にも、そして店内にも客の姿は無かった。そういう時間帯なのかもしれない。もしくは流行っていないのかもしれなかった。何しろ場所が悪い。表の通りに面していないのだ。脇道に、何となく存在しているのである。
店に入ってきた私に気がついて店の人が立ち上がった。立ち上がるとなかなか上背のある、さらりと素敵な感じの男性だった。イタリアに連れて帰ったら、すぐに人気者になるだろうと思った。何か冷たいものをと言う私に、メニューを差し出した。外の看板よりは優れていたが、ハンドメイド風の、この店らしいメニューで私の笑みを誘った。その笑みを店の人は勘違いしたらしく、何か良いことがあったのかと訊く。いいや、良いことはないけれど、そうだ、私は今休暇中なのだと言うと、何だ、充分良いじゃないかと言って笑った。そんな彼を見ながら、きっとこの人が店主のMr. Feeling goodに違いないと思った。メニューにはレモネードがあった。自家製らしい。此れを飲めばFeeling goodになるのかと訊ねると、彼は笑いながら大きく頷いた。こういう人はいい。幸せな気分に周囲の人達を巻き込んでくれる。それからチーズケーキを注文した。街でいちばんのチーズケーキは一体どんなものなのかと思って。勿論、期待はしていなかった。誰だって自分の店のものが街で一番だと思うものなのだ。けれど、この店に入った途端、食べてみたくなった。どうしてだろうか。
レモネードは爽やかで美味しくて、此れは予想通りだった。チーズケーキは、一口食べた途端に涙が零れそうになった。姉が作ったチーズケーキとそっくりだった。姉がまだ20代始めだった頃。私がまだ高校3年生だった頃のことだ。姉はある日突然病に掛かった。いいや、少し妙だと家族の誰もが思っていたが、医者に行って病だと診断を下された。疲れてはいけない、外に出てはいけない、あれも此れも制限されて姉は困ってしまった。本を読んだり、音楽を聴いたり、時には勉強をしたり、そうして何か自分に出来ることをと考えて、思いついたのがパンや菓子を焼くことだった。以前、興味半分で買った本を棚から抜き出して作り始めたら面白かったらしい。初めて焼いたパンは上手くできなかったけれど、回を重ねるうちに上達して、家族みんなに喜ばれた。パンが上手に焼けるようになると、ケーキ作りが始まった。ある日学校から帰ってきたら、家中にいい匂いが満ちていた。チーズケーキを焼いたのだという。当時、焼きチーズケーキが日本でもてはやされ始めた時代だったと思う。だから実を言うと、姉も私も、ましてや父や母は、美味しいチーズケーキがどんなものだか知らなかった。どきどきしながら菓子を切り分ける姉。わくわくしながら、それを待つ私。そして食べてみたらレモンの酸味が丁度良くて、甘さはとても控えめで、ずっしりと重いチーズケーキに私は直ぐに恋をした。姉はそれで充分だと言った。私がそれを好きならば、それがいちばんの褒め言葉だといって喜んだ。あれから姉は幾度かチーズケーキを焼いてくれたが、そのうち医者から許可が下りて勉強を再開すると、パンや菓子を焼く時間はなくなってしまった。あのチーズケーキにまさかヴィエンナの、このカフェで再会するなんて。それまでぺらぺらとお喋りをしていたのに、チーズケーキを一口食べた途端に黙りこくってしまった私を、店の彼は不思議に思ったに違いない。食べ終えて代金を払いながら、確かに街でいちばんのチーズケーキだったと言うと、そうなんだ、このチーズケーキはね、みんながそう言ってくれるんだ、と彼は言った。あの看板は、案外そんな客の褒め言葉から生まれたものなのかもしれない。別れ際に彼はいった。気をつけて。ヴィエンナも明日から暑くなるらしいよ。気が向いたらまた遊びに来てよ。私は彼のそんな言葉を背に受けながら店を出た。

今日も一日ぶらぶらした。しなくてはいけないことも無ければ、絶対したいことも無い。気が向いた時に美術館に入って、気が向いた場所で食事をして。こういうのは贅沢だな、と相棒は言う。うん。確かに贅沢だと私も思う。




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コメント

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2017/08/10 (Thu) 08:33 | # | | 編集
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2017/08/10 (Thu) 14:11 | # | | 編集
Re: ウィーン

鍵コメさん、初めまして。素敵なお誘い有難うございました。詳しくは他の形で連絡させていただきましたが、無事届いているでしょうか。縁があっての出会い、大切にしたいと思います。これからもお付き合いお願いいたします。

2017/08/10 (Thu) 20:09 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

鍵コメさん、こんにちは。お久しぶりですね。何だか、とても忙しそうではありませんか。息つく暇も無いなんて、そ、そんな。でも身体を壊してはいけませんからね、時にはのんびりして欲しいです。自分の姉をみていると、鍵コメさんの言葉が理解できるような気もします。私はその反対の道をたどっています。常にのんびりのほうへと。もう日本で暮らすことが出来ないかもしれませんね・・・。

2017/08/10 (Thu) 20:21 | yspringmind #- | URL | 編集

yspringmindさん、こんにちは。
年末にイタリアに行くので、今年の夏は大人しくしております。
なので夏休みの代わりにNina SimoneのFeeling goodを聴くことにしよっと。

2017/08/15 (Tue) 04:05 | micio #O/XG6wUc | URL | 編集
Re: タイトルなし

micioさん、こんにちは。今年の12月はイタリアですか。それでは楽しみはそれまでお預けと言うことで。

2017/08/15 (Tue) 18:34 | yspringmind #- | URL | 編集

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