昔の場所

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今朝のテレビで、今日はサルデーニャ辺りで42度に上がるらしいと報道していたけれど、さて、どうなっただろうか。私はと言えば37度だって耐えられぬ、と今日は朝の涼しいうちに一週間分のアイロン掛けをした。基本的にアイロン掛け作業は苦にならぬ作業のひとつだけれど、暑い夏となれば話は別だ。夏を迎えてアイロンを掛ける度に、週に一度、決まった曜日にアイロン掛けと家中の掃除をしてくれる人が通う、隣人たちが羨ましくなる。何時か家でもと思うけれど、近い将来実現することはないだろう。

夕方になって風が吹き始めた。生ぬるい風。近郊で夕立があった時の風ではない。夕立の風はほんの一瞬ひんやりして、火照った素肌を慰めてくれる。今日の風はぬるい風。近郊に夕立が来る手前の、単なる生ぬるい風だ。それでも吹かないよりは良い。風に膨らむレースのカーテンや、すっかり花を終えて単なる緑色の蔓だけになったジャスミンの枝が揺れる様を眺めながら、風に身を任せる。

ちょうど今頃のことだ。冬のうちにローマに仕事を見つけて住み移った私が、夏の休暇を利用してボローニャに戻ってきたのは、相棒がふたりで暮らすために丁度良いアパートメントがあるから見に行こうと誘ったからだった。私が前々から出していた条件にかなうもので、旧市街からバスで5分ほど、歩いても行けるような界隈。それから家を出て少し先には食料品店がいくつもあって、大変便利そうである、というのが相棒のセールストークだった。ローマに飛んで行ってしまった妻をボローニャに呼び戻すには、私が好みそうな家を探すしかないと思ったのだろう。私の方も、知人たちが相棒がローマで働けるようにと良い話を持ってきてくれるのに、頑としてボローニャから腰を上げぬ相棒に、どうしたものかと思っていたところだった。このまま、離れて暮らし続けるのか、と。当時はユーロスターなどという早い列車はなかったから、インターシティ列車で何時間もかけてボローニャに戻ってきた。私にとってボローニャは相棒が居る、それだけの意味しか持っていない街だった。私は既にローマで快適に生活する術を得ていたからだった。駅に迎えに来た相棒。その足でアパートメントを見に行った。古い建物で日本で言う5階建て。貸し出そうとしているのはPRIMO PIANO、日本で言う2階に当たる部分だった。相棒が貸主に電話をした時、既に先に問い合わせている人が居た。だから、数日待ってほしい、先に電話してきた人が優先だからね、と言われたそうだ。そうして数日後もう一度電話をかけてみたら、先の人は80歳の老女で、アパートメントは大そう気に入ったが階段の上がり降りがしんどいからということで破談になったとのことだった。この建物が建てられた時代は、日本でいう6階建て以上でないとエレベーターを取り付けられなかったから、5階建てのこの建物には階段しか上にあがる手段がなかったのである。そういう訳で私達は、アパートメントを見ることになったのである。建物の中に入って分かった。確かに80歳の老女にはこの階段は辛かろう、と。典型的なイタリアの50年代、60年代の建物でだった。貸主は言った。狭いのよ。でも此のアパートメントは大好きで、どうしても手放したくない。だから貸しているの。そうして中に入ったら、無駄に長い廊下があって、貸主と相棒は笑った。昔ながらの作りだ、と。当時はこうした長い廊下が主流だったという。雨戸をあけるとあっと驚いた。明るい。そして広いテラスは20平米ほどだろうか。キッチンは目も当てられぬほど狭いが、これもその当時の主流とのことだった。ずっとだんまりの私に貸主も相棒も、ああ、彼女は気に入らなかったのだろう、と思ったらしいが其れは違う。私はこの古い作りの狭いアパートメントの天井が3メートルほどあって気持ちが良いこと、外の暑さが嘘のように中がひんやりしているのは恐らく大理石の床のおかげであることなどを考えていたのだ。狭いけれど、感じがよく、多分快適に暮らせるだろう。それに相棒とふたりで暮らせるならば、これ以上良いことはない、と。私達はその場でアパートメントを借りる話を纏めた。これを断る理由などひとつもなかったし、それに相棒も私も、もう離れ離れの生活が嫌になっていたから。それから不都合な部分が沢山あるこのアパートメントを自分たちで手直しすることを条件に、半年間家賃なしにしてくれるというのも魅力だった。そんなうまい話は、そうそうあるものではない、私達は運がいい、と思ったのを今でも覚えている。手直ししたアパートメントにその秋に入居して10年も住んだ。他を探す気もなかったし、ここを出る時は追い出されるか、それとも自分たちのアパートメントを購入する時だと思っていたから。10年の間に、様々な人が出入りした。友人、友人の友人。まるでアメリカに暮らしていた頃の延長のようだった。いつも夕食時になると誰かがふいに訪れたように。みんなで一緒に食事をしたように。私のボローニャ暮らしは、前年の初夏にボローニャの空港に降り立った時に始まったのではない。降り立った後に居候生活を繰り返して、田舎に暮らして、そこを飛び出してひとりローマで生活をして、それらすべては単なる経過、出来事でしかないのだ。私のボローニャは、此のアパートメントでの生活から始まった。私はそう思っている。
先日その界隈を車で通ったら、随分と様変わりしていた。当時は外国人と分かるのは私ひとりくらいなものだったけれど、外国人がわんさか押し寄せる界隈になった。古い人たちが家を手放したのだろう。あの頃の雰囲気はどんなに探しても見つけることが出来ないくらい、まるで知らない界隈のようになってしまった。私達があの場所を離れたのが潮時だったのかもしれない。

それにしても猫は一番涼しい場所を知っている。家で一番涼しい場所を陣取って、涼しい顔で眠っている。




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コメント

こんにちは、yspringmindさん。
時とともに、人が替われば、街は特に変わるの早いでしょう。
古いものを大切にするイタリアでもそうなんですね。
私もへんな話、yspringmindさんと同じ状況です。同じにしたら申し訳ないですね。ある街から私が飛び出しているのですよ。いまも。とても窮屈に感じて。

2017/07/13 (Thu) 12:33 | つばめ #- | URL | 編集

何度もすみません。
どうして相棒さんは、動かなかったのでしょう。

2017/07/13 (Thu) 12:41 | つばめ #- | URL | 編集
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2017/07/13 (Thu) 20:57 | # | | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。街は変化しますね。ボローニャの旧市街は中世と現代の共存。現代の部分は実に驚くほど速く変化します。
相棒がローマに来なかったのは、ボローニャの人間がローマに働きに行く、そういうことに拘ったからです。21年前のイタリアは、自分が暮らす町で仕事を得られないで別の街に行くのを、負け犬みたいだと思う風習があったからです。特にボローニャ辺りでは。今はもうそんな風習はありませんけれどね。

2017/07/16 (Sun) 22:13 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: No title

鍵コメさん、こんにちは。色んなことがありましたね。それにしても素晴らしいではありませんか。鍵コメさん、これからは安心ですね。
私はアメリカと言っても西の方しか知らないので、案外他の街へ行ってみればその土地もひどく気に入るのかもしれません。それともやはりサンフランシスコの方がよいと思うならば、よほどあの町と相性があった、運命的な出会いだったということになりますね。ところでモントレー。懐かしい町の名前が飛び出して、ドキドキしました。

2017/07/16 (Sun) 22:17 | yspringmind #- | URL | 編集

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