撫でる風

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早起きして出掛けようと思っていた土曜日。今日は七つの教会群の前の広場で骨董品市があるはずだから。それからちょっとウィンドウショッピングもしたい。涼しいうちに外を歩き回ろうと思っていたのに、目を覚ました時には既に気温は十分高く、出掛ける気持ちが挫けてしまった。子供の頃、あれほど好きだった夏。暑ければ暑いほどうれしかったのが嘘のように、今は暑さに弱くなり、暑さと付き合うのが下手になった。ここ4年ほどのことだ、これほど暑さが苦手になったのは。若くない証拠なのか、それともそれは考え過ぎなのか、いくら考えても分からない。人間は年月と共に好みが変わっていくものなのだと思えばよいかもしれない。うん、そうに違いない。
気持ちが挫けたついでに家でぶらぶら過ごすことにした。昨夕、近所の青果店で購入したメロンがとても美味しかったから、もうひとつ買い求めにちょっと外に出てみようかとも考えたが、空に輝く太陽と、地面に落ちる黒い影を眺めていたら、またもや気持ちが挫けた。歩いてたった5分の距離なのに。だってねえ、と猫に同意を求めたが、猫も暑くて機嫌が悪いのか、ふんっ、とそっぽを向いてごろりと冷えた床に寝転がる。風通しの良い場所に座って本を読んでいたら、ふと空のトーンが暗くなり、緩い、涼しい風が吹き抜けた。風が露わになった肩や腕を撫でていった時、ああ、この感覚を私は覚えている、と思った。

初めてアメリカに行った時のことだ。今から30年も前のことだ。英語もできない、ひとりの旅とあって私は不安だった。そもそも私は旅行会社にすべてを任せていて、私のほかにも同じ日に出発する同世代の女性がふたりいるから心配することはない、あなたはひとりじゃないんだから、と勇気づけられていたのだが、空港へ行ってみたら、諸事情で他のふたりは出発しないと知らされた。私が他のふたりを当てにしていたかと言えばそうではない。大体私はひとりの旅をしようと思っていたのだから。でも、初めての外国。好きだけれど話ができるレベルではない言葉。アメリカの空港に到着した時のことが不安ではないと言ったら嘘だった。9月とあって飛行機は空いていた。半分以上が空席で、この上なく快適だった。アメリカ大陸に着陸する少し前に、後ろの席に若い女性がいることに気が付いた。髪の長い、洗いざらしのジーンズを格好良く履いたひと。彼女はシャネルの赤い口紅をつけている最中で、偶然目があってしまった私に、ちょっと照れながら片手をあげて挨拶をした。今思えば、あの当時よくいた感じのOLといえば丁度いい感じだったかもしれない。飛行機が着陸して立ち上がると、あなたもひとりなの? と声を掛けてきた。ひとりだ、初めての外国で少々不安だ、と言う私に、彼女は顔いっぱいに笑みを湛えて、大丈夫よ、きっとうまくいくから、みたいなことを言うと私をひとり残して去っていった。彼女は美しかった。白いコットンシャツを無造作に着て、ジーンズに包んだすらりと伸びた長い脚、長い黒髪と赤い口紅。女の私でも惚れ惚れしたくらいだから、すたすたと追い越してく彼女に男性たちは皆見惚れて、まるで映画の一場面を見ているようだった。
彼女とは縁があった。数日後、バスの中で偶然会った。そこで私達は少し話をして、彼女はこれからL.Aへ行くこと、そこには知り合いの家族が住んでいることを知った。彼女は英語が堪能で、それは近所の教会のアメリカ人の宣教師から教えて貰ったのだと言った。もう会うこともなかろうと思っていたら、彼女とはもう一度会った。数日後、もう夜と言ってもよいような時間に、街中で偶然。そんな偶然が続いたので私達は住所を交換した。そうして旅を終えていつもの生活が始まると、そんなことは忘れてしまった。彼女の住所がぽろりと出てきたのはどうしてだろう。あれから数か月が経っていた。私は思い立って、あなたが言っていた通りだった、とても良い旅だった、と手紙を書いたら、少し経って返事が来た。彼女の家族が反対していること。彼女がアメリカ人宣教師と結婚をして、アメリカへ行くことを。あの後どうなったのか、私は知らない。なぜなら私達の手紙のやり取りはそこで終わってしまったから。
それで私が覚えている感覚とは、あの初めての旅で私がアメリカの街をひとりで歩いていた時の感覚だ。知っている人などひとりも居なかった。なのにすれ違いざまに目が合うならば人が私に声を掛けていく。こんにちは。うまくいっている? そんな感じに、感じのいい笑みを添えて。風が露わになった肩や腕を撫でていったような感じ。居心地が良くて嬉しくなるような、それとも肩の力が抜けていくような。私がその街に住みたい、いつかきっとこの街に住みたいと思ったのは、これが始まりだった。私にとって居心地の良い空間を確保できると信じて疑わなかった。

今夜は無花果と生ハムにしよう。昨夕、青果店の店主が勘定を終えたのちに、ふと紙袋を取り出して、きれいに並べられた美味しそうな無花果を幾つも放り込んだ。ええ? と戸惑っていると店主が言った。無花果が好きなシニョーラ。美味しいメロンが出回ってからは少しも無花果に関心を向けてくれない。それでは無花果が可愛そう。そう言って紙袋をビニールの手提げ袋の中に入れると、これはおまけだからと付け加えた。そんな無花果。上等の生ハムと一緒に頂いたら、無花果は喜んでくれるかもしれない。




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