彼のこと

DSC_0003.jpg


ジャスミンの花が満開だ。窓を開けると四方八方から匂いが流れ込んでくる。自分のうちのテラスからと、上階の住人のテラスからと、それから多分近所の庭にもあるのだろう。この家に住み始めて3年が経とうとしているけれど、こんなにジャスミンの花が咲いたのも、こんなににおいを放っているのも、これが初めてのことだ。今年のジャスミンは機嫌がいい、と言ったら相棒が笑った。あはは。そんなことを言うのは世界で君くらいしかいないだろうね、と。

数日前の晩、食事中に相棒が急に懐かしい名前を言った。私達は愛称で呼んでいたが、正しくは実に美しい音の名前である。彼が旧市街の小さなアンティークの店を閉めてから、もう何年にもなる。閉めた理由は何だっただろうか。もう忘れてしまった。彼は相棒の友人で、ふたりは仕事上でも繋がりがあったから、本当に頻繁に会い、電話で話もしていた。それは彼が店を閉めてからも続いていたが、彼が本職なのか、趣味なのか、役者業の為にフランスへ行ってから会うこともなくなってしまった。フランスの次にはローマ辺りへ飛び、なんだ、彼は随分と活発なんだな、と相棒と私は目を丸くしていた。私達は彼のことを、少なくとも活発な人ではないと思っていたからだ。本を読むのが好きで、いつもじっとしている。おとなしい子犬みたいな。そんな印象の人だったから。旧市街を歩いていた時に大きな声で彼に呼び止められたのは、いつだっただろう。多分3,4年前のことだ。暑い夏の夕方で、何しろ私は先を急いでいたから、あら、久しぶりねえ、今度一緒に食事でもしましょうよ、と言って別れて、それっきりだった。それで、その彼が数日前に電話をよこしてきたそうだ。彼の父親が病で亡くなり、母親とふたりきりになった。人が羨むほどだった両親が作り上げた財産は、悪い人に騙されて失ってしまったそうだ。病の夫を支えながら、会社も支えていた彼の母親は、もう疲れ切ってしまったらしい。もう、本当に何もないんだよ、とのことだ。残ったのは祖父から譲り受けた家だけらしい。私達からすれば、家だけと言っても広い土地付きの大きな一軒家だから、十分ではないかと思うけれど、大きな財産を持っていた人たちにしてみれば、これだけしかない、と言うことになるのだろう。兎に角、母親は疲れ切っていて、彼女が愛する暖かい土地へ移り住みたいと毎日のようにこぼしているそうだ。残りの人生を暖かい土地で。シチリアが良いそうだ。シチリアに生まれて育ったわけでもない、生まれも育ちもボローニャだけれど、彼女はシチリアが好きなのだそうだ。それは分かるような気がする。あの太陽の日差し。私だって大好きだ。檸檬色の風。ボローニャとは確実に違う生活が存在するに違いない。優しい彼のことだから、母親の為に、本当にシチリアに移り住むかもしれない。人を疑うことを知らない、この真面目で善良な家族が、こんな状況になっていると知って相棒と私はすっかり落ち込んでしまった。私達に何かできるだろうか。今度家に呼んでみようか。それとも旧市街で待ち合わせをして、美味しいワインでも頂こうか、以前私達がよく夕方に落ちあって、食前酒を楽しんだように。どうでもいい話に笑い転げて、あーあ、君は本当に気楽でいいね、と言われたことが幾度もある。違うわよ、今までが大変だったから、気楽にすることにしたのよ。私がそう言葉を返すと、君の気楽に乾杯、などと言ってグラスを高く掲げた彼。彼が今の状況に潰されずに、気楽さを忘れないでいてくれればいいと思う。

どこか遠くで花火が打ち上げられているらしい。随分沢山の花火が。お祝い事だろうか。それとも祭りだろうか。ああ、夜遅くまで楽しむ、そんな季節になったのだなあ。




人気ブログランキングへ 

コメント

私の友人夫妻も日本で詐欺にあい不動産を含めて、財産を失いました。その後、友人は多くの病を抱えながら、頑張って生活しています。
yspringmindさんご夫妻の友人の方のお母様が、ご健康で過ごされることを祈るばかりです。
しかし、どうして人を騙す者がいるのでしょうね。私もボローニャから帰国する寸前に、詐欺にあって、最新式のビデオカメラと言われて塩のパック1キロを170ユーロで買ってしまったことなど、土産話で笑えるのですが、財産となると話は異なりますね。
とにかく、健康で気楽が一番ですね。

2017/05/31 (Wed) 02:59 | Via Valdossola #P6wRKz4w | URL | 編集
Re: タイトルなし

Via Valdossolaさん、こんにちは。ご友人夫妻も日本で詐欺にあったそうですが、本当に人生何が起きるかわかりませんね。その後、ご友人は多くの病を抱えながらも頑張っているそうで、遠くから声援を送りたいと思います。
Via Valdossolaさんもボローニャから帰国する寸前に詐欺に??? 最新式のビデオカメラと言われて塩のパック1キロを170ユーロ!!!今となっては笑って話もできるでしょうけれど、そうと知った時の落胆は大きかったことでしょう。それにしても、そういうのをイタリアの映画で見たことがありますが、本当にあることなんですね。
兎に角、健康が財産です。気楽にいきましょ。

2017/06/02 (Fri) 16:46 | yspringmind #- | URL | 編集

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する