あの頃のこと

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いつの間にか家の周りの木々が生い茂り、向こうの家が見えなくなった。こんな住宅街でも、向こうの家の姿が見えなくなれば、まるで郊外に住んでいるような気分になる。遅い夕方に吹く、涼しい風にそよぐ葉の音に耳を澄ましながら、いつかこんな日が来るとは思いもよらなかった頃のことを思いだす。

ボローニャに、ボローニャに暮らすためにアメリカ生活にピリオドを打ってここに来たのは1995年の5月下旬のことだ。不安よりも期待の方がはるかに多かったあの日。しかし、日が経つにつれてその期待は減っていった。住居の定まらぬ生活。サンフランシスコに慣れた肌を射る強い太陽。眠れぬ夜。生活の変化と暑さで食欲は減る一方で、健康が心配だった。何とかなると思っていたけれど、何とかならずに焦るばかりだった。そんなところにアメリカから送った20FTのコンテナが港に届いて、途方に暮れていた相棒と私。私たちが得意とする楽観主義はいつの間にか消え去り、ここに来てしまったことを、口には出さなかったけれど、相棒も私も、多少ながら悔やんでいた。ローマへ行ってみたり、フィレンツェに毎日通ってみたりしながら、私は闇に放り込まれた小動物のように、この方向でいいのかな、これでいいのかな、といつも自問しながら前に進むしかなかった。あれから20年以上が経って、気が付いたら、ここに暮らすのが当たり前になり、それなりに楽しむ方法を学び、ああでもない、こうでもないと言いながら自分らしくやっている。いや、本当に自分らしくやっているのかどうかは疑問だけれど、少なくともあの頃のような悲しみや後悔はなくなった。もうこんな生活は嫌だ、こんな町は嫌だと言ってすべてを捨てて出ていくこともできた筈。でも、そうしなかったのは、多分私が多少ながらの期待と、それから多少ながら、ここでの生活に捨てがたい何かを感じていたからに違いない。
数日前、アメリカから引っ越してきて丸々22年が経ったことを祝った。何がそんなにめでたいかと言うと、私たちがどんな時も諦めなかったことだ。諦めないこと。それは決して簡単ではないことを私達は知っているから。食器棚から、私たちが好きで集めたアメリカの食器を夕食のために取り出してテーブルに並べてみた。果物の柄がついた大きな皿はパスタ用。変わった大きさの皿には茹でたてのぷっくりと太くて柔らかいアスパラガス、そしてもうひとつの皿にはフランスのチーズを。透けた水色のカップには、夕方買ってきたジェラートを。豪華ではないけれど、味わいのある、私たちがひとつひとつ買い集めた食器たち。大窓から流れてくる風を楽しみながらそのひとつひとつを手にとって楽しみ、そうしては私達にしては大いに奮発した白ワインを楽しんだ。そうしていつかこんな風に、落ち着いた気持ちであの日のことを語り合える日が来るなんてと、心の中で思った。私たちが落ち着いた証拠だ。諦めではなく、開き直りでもなく、どのようにしてここで生活を楽しんだらよいか、私たちが気が付いた証拠なのだ。私はもう悔やんでいない、ここに来たことを。多分砂粒ほどの戸惑いのひとつくらいはあるかもしれないけれど。

空を飛び交うツバメ。そういえばあの日もこんな風にツバメが飛び交っていたっけ。




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