拘り

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夕食を準備していると時々思うことがある。それは私は単純で、そして案外幸運な人間だということだ。誰にでも拘りのひとつはあるだろう。例えばコートの肩のラインはこうでなくてはいけないとか、革のベルトの縫い目とか、絹のスカーフの発色や手触りとか。私の拘りはそんな立派なものではない。大変身近なもので、笑ってしまうほど単純だ。ひとつはアスパラガスの茹で加減。絶妙なタイミングで茹で上がった日は、何という幸運、とまで思う。簡単そうで簡単ではない。そんな拘りを持っているから、相棒も茹で上がったアスパラガスを黙々と堪能しながら食してくれる。もうひとつも似たようなものだ。パスタ。パスタの茹で具合に非常にうるさい。うるさいのは相棒ではなく、私の方で、一瞬でも湯から引き上げるのが遅れてしまってはならぬ。茹で具合を試しながら、うーん、あと20秒、などというと居合わせた友人達はお腹を抱えて笑うけれど、それ程パスタの茹で具合は大切だ。30秒ではいけない。20秒きっかり。そうしてうまい具合に茹で上がったパスタを食する喜び。幸せだと思う。そういう訳で私はほぼ毎日幸せを感じることができるのである。単純であるがために幸せを人より多く感じることができる、というと丁度良いかもしれない。

ところでこんな風に茹で具合にひどく拘るようになったのはイタリアに暮らし始めて、数年経ってからのことだ。私と相棒は山の友人ジーノと頻繁に交流していた。時には私達が山へ行き、時には彼がボローニャの私達のアパートメントに来て、昼食や夕食を共にした。そのうち彼の弟夫婦がナポリからボローニャに移り住み、時々一緒に食事を共にするようになった。若い夫婦で、ボローニャでの新しい生活に希望をたくさん持っているようだった。ある日、弟夫婦が自分たちの家に来ないか、夕食をご馳走するよ、というので行ってみた。ふたりはボローニャ郊外の山の、小さな村に小さなアパートメントを借りていた。本当に小さなアパートメントだった。太陽が降り注ぐナポリからやってきた夫婦は、昼間でもあまり太陽の光が入らない此のアパートメントは湿気だらけで嫌いだと言った。湿度は、建物が岩に張り付くようにして建てられているからで、ふたりが借りていた住まいは丁度岩に接する部分だったからだ。太陽の光が当たらないのは、この家に限ったことではなく、村全体が太陽の光から逃げるようにして存在していた。皆、悪くない、なかなかいいじゃないかと言うけれど。唯一の救いは兄さんの家が近い。だから僕らはここにいるけれど、君はどう思う、と私に訊いた。どうやら第三者の、外国人の意見を知りたいらしかった。私は太陽の光の入らぬ家も、湿っぽい家も気分が塞ぐから嫌だ、いくら兄弟が近くに住んでいたとしても、と言うと、ほら!ほら!やっぱりそうなのよ! と弟の嫁が言った。周囲の人は皆、私が我儘だというのだけれど、と言って私を抱きしめた。ありがとう、ありがとう、まだこの家に居なくてはいけないにしても、誰かが分かってくれただけで私は何とか我慢できる、と言って。私からすればナポリ出身の彼女はれっきとしたイタリア人だが、こんな村に住んでいると外国人並みの扱いを受けるのかもしれない。それに彼女は若かったから。あなたは我慢が足りないだの、あなたは何もわかっていないだの、私にも覚えのある言葉だった。私がボローニャに引っ越してきた時に言われた言葉に通じるものがあって、彼女に抱きしめられながら、心がチクンと痛んだ。忘れかけていたこと。あまり思い出したくないことでもだった。元気を取り戻した彼女は、さあ、パスタを茹でるわよ、と腕まくりをして湯が沸騰する大きな鍋にパスタを投げ入れた。パスタはナポリから持ってきた特別なパスタらしく、ボローニャ辺りでは手に入らない、とのことだった。彼女は一度茹で具合を試し、あと2分と言い、そのあと試して、あと30秒と言い、そうして何か別のことをしたが為に30秒の予定時間より10秒か15秒ほど過ぎてしまい、ベストの茹で具合を逃してしまった、と大騒ぎになった。わーわー、きゃーきゃー言いながらテーブルに出されたパスタはお世辞抜きに大変美味しかった。なのに彼女は残念でならぬと言った風で、あなた達に本当に美味しい、ベストの茹で具合のパスタを食べてほしかったのに、とパスタを全部食べ切るまで残念がった。彼女の夫はと言えば、やはりベストの茹で具合を一瞬過ぎてしまったと、一瞬彼女がテーブルを離れた時にこっそりと小声で零した。こんなに湯で具合に拘りのある人達に会ったのは初めてだったから、大変印象的だった。それからうちでは茹で具合に厳しくなった。あ、茹で過ぎだね。あ、絶妙のタイミングで湯から上げたね、とそんな感じに。それがパスタであり、アスパラガスなのである。

帰りにパンを買ってきた。弾力があって、ほんの少し酸っぱい。サンフランシスコのサワードゥブレッドに良く似たパンで、思い切りサンフランシスコに居た頃のことを思いだした。このパンをテーブルに出したら、相棒も思いだすだろうか、サンフランシスコに暮らしていた頃のこと、あの水色のフラットに住んでいた頃のことを。




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コメント

こんにちは、yspringmindさん。
私もナポリからのお嫁さんに大賛成ですよ。日の入る家が一番ほっとします。

2017/05/07 (Sun) 12:15 | つばめ #- | URL | 編集

こんにちは。
写真はジョン・レノンとミック・ジャガーでしょうか?
どちらかというと、、、ビートルズのほうが好きなんです。わたし。

2017/05/08 (Mon) 07:52 | micio #O/XG6wUc | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。私も賛成です。陽が差し込むというのは、重要ポイントだと思いますよ。健康的でいいですよね。

2017/05/11 (Thu) 22:10 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

micioさん、こんにちは。そうです、写真はジョン・レノンとミック・ジャガー、1973年あたりに撮られたものと記憶しています。私は断然ビートルズが好きですが、しかしですね、このミック・ジャガーと言う人は、文句なしに魅力的なんですよ。ですからこの写真を見た時に真っ先に彼が目の中に飛び込んできました。

2017/05/11 (Thu) 22:13 | yspringmind #- | URL | 編集

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