迷う旅

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土曜日の朝、渋りながら列車に乗ったのは、あまり気が乗らなかったからだ。まさ4月下旬のこれほど寒くなろうとは、考えていなかったのだ。連日の冷え込みで少し風邪を引いていたから、ボローニャよりさらに北の、しかも運河や海の風が路地を通り抜けるヴェネツィアへ行くのは得策ではないのではないかと考えあぐねていたのだ。とはいえ、特急列車の乗車券は2月に購入済みだった。何故2月に購入したかと言えば、びっくりするような安い価格で売り出しているのをネットで見つけたからだった。今年は一か月に一度はボローニャから日帰り旅行をしよう、などと年頭に決めたこともあって。渋りながら列車に乗ったが、シートに体を埋めて列車が動き出すと、何やら愉快な気持ちになった。日帰り旅行の始まり。どうせ行くなら楽しまなくては。見慣れたボローニャの街並みを後にして、特急列車は北へ北へと走り続けた。

ヴェネツィアという街にシーズンオフというものは存在しない。それはフィレンツェと共通するもので、一年通じて訪れる人が絶えない。そうと知ってはいたものの、大運河に面して在るサンタ・ルチア駅を出て、あっと驚いた。人、人、人。3月に訪れたときは英語とドイツ語が耳についたが、それらは存在を潜めていた。耳につくのは北から南の様々なアクセントのイタリア語。イタリアは4月25日が祝日なので、飛び石連休を利用して小旅行を楽しむ人が多いとは心得ていたが、その多くがヴェネツィアにきてしまったのではないかと思うほど、四方八方からイタリア語が聞こえてきた。サンマルコへと向かう船は長蛇の列。リアルト橋へと向かう道も大変な混み合いで、混雑が苦手な私は、小さく溜息をこぼさねばならなかった。ようし。と、この人の波から逃れるために細い細い脇道に逃げ込み、その少し先でも人の波から逃れるために脇道に逃げ込み、そんなことをしているうちに私は方向感覚を失ってしまった。地図はポケットに入っていた。しかしあえてそれを広げなかったのは、そして通りすがりの人に道を尋ねなかったのは、時間はたっぷりある、迷えるだけ迷ってみようと思ったからだった。
ヴェネツィアに何があるのか、と相棒は決して訊かない。ヴェネツィアの素晴らしさを知っている人は、行けば行くほどこの街の魔法にかかることを知っているからだ。そんなことを考えているうちに辺りは昼食時のいい匂いがしてきた。カンナレージオ界隈の小さな運河に面して建つ古い店の窓ガラスから中を覗いてみたら、地元人風年配の男性3人が仲良くお喋りをしながら小さなテーブルを囲んでいるのが見えた。小さなガラスコップに白ワインを注ぎあいながら。とてもお腹が空いているわけではないけれど、何かつまみながら地元の白ワインを楽しむのも悪くない、と店の扉を押した。店の中はうす暗くて、小さなテーブルと椅子が所狭しと並んでいて、そのどれもが塞がっているように見えた。カウンターにいた感じの良い女性が私の存在を見つけ、挨拶を投げかけてきた。ひとりなんだけど、席は空いているかしら。そういう私を奥の明るい広い席に案内してくれた。店には数人の店員がいるが、彼女が私の担当になったのは全くの幸運だった。私が観察する限り、彼女は大変明るくて寛容で、誰に対しても大変感じが良かった。すごくお腹は空いていないけれど、何か食べたい。美味しい白ワインと一緒にね、と良くわからないことを言う私の注文に、それならこうしましょう、と手短に説明すると、後は私に任せて、とウィンクをして私を残していった。私の席からは若い男女が見えた。多分、ヴェネツィア大学の学生だ。女性の方はボローニャ出身だろう。アクセントと言い回しでわかる。男性の方はスペイン人だ。イタリア語はうまいが、ときどきスペイン語が混じる。ふたりは店の常連らしく、今日のお薦めを、と注文した。白ワインを小さなガラスコップに注いで、乾杯をする様子が眩しかった。と、そこに私の食事が出てきた。彼女はちらりと皿の中を眺め、メニューにないものが出てきたことに驚いているようだった。あんなメニュー、あったかしら、ねえ、なかったわよねえ、と向かいに座っている男性に話しているのを聞いて、私は先ほどの店の女性が如何に素晴らしいかを知った。メニューにないものを出してくれる店はいい。イタリアでは顔見知りになると、そうした特別なことをしてくれることが多い。けれど私は通りすがりの旅行者。すごくお腹は空いていないけれど、何か食べたい。美味しい白ワインと一緒にね。私が言ったこの言葉を彼女がよく理解してくれた証拠だった。食事は大変おいしかった。ワインも樽から注いだに違いない普通のワインだが、爽やかでおいしかった。お腹が空いていないと言ったくせに、美味しいワインを頂いたせいで食欲が出て、彼女が進めてくれた温かいリンゴとシナモンの菓子も頂いた。向こうの大きなテーブルにアメリカ人の家族が座った。小さな子供達には牛乳を。夫婦には冷えたこの辺りの上等の白ワインを。先ほどの彼女がワインのコルクを抜いてサービスする姿は素晴らしく美しく、単なる店員だとしたら、この店は大変な宝を掘り当てたことになると思った。帰り際にカウンターで勘定を済ませた。勘定係は店主である。忙しくてそれどころではないのだろう、にこりともしない不愛想な店主だったが、美味しく食事を頂いたこと、あそこにいる彼女の接待の素晴らしいことを述べたところ、目を丸くして暖かい笑みを顔いっぱいに広げて、ありがとうと言った。店を出て歩き始めた。いい昼食だった。でも、この店にもう一度来ることはあるかどうかわからない。何しろ何処に店があるかもわからない、迷った挙句にたどり着いた場所だったから。

時には生活の場を離れてみるといい。朝あれほど渋りながら列車に乗ったというのに、もう上機嫌で、今日ここに来たのは全くの正解だと思っていた。 




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コメント

No title

yspringmindさん、はじめまして。
もう5年も前からずっと見させてもらっていますが、初めてコメントします。
社会人になってからいろいろなことがありましたが、こちらのブログを読むたびに、ああ、私もがんばろう、と思って今までやってこれました。
ヴェネツィアの日帰り旅行、とても素敵な旅行でしたね。
ふらっと迷いながらの旅行。私もそんな旅をまたしたくなりました。

2017/04/27 (Thu) 09:15 | Julienne #- | URL | 編集
Re: No title

Julienneさん、こんにちは。もう5年も前から読んでいただいているなんて光栄です。誰の人生にもいいことあり、良くないことやつまらないこともありますね。私のこの雑記帳がJulienneさんの困った気持ちの時に少しは役に立っていると知って嬉しく思いました。
時にはふらりと日帰り旅行もよいものです。今度は南の方に、フィレンツェにでも行ってこよう、なんて、あはは、遊ぶことばかり考えていますが、こういうことって、案外必要なことなのではないかと・・・。

2017/04/29 (Sat) 17:43 | yspringmind #- | URL | 編集

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