思いがけないこと

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金曜日の夕方、旧市街に立ち寄ることもなく、近所のクリーニング屋さんに行って頼んでおいた衣類を引き取ったり、オレンジを買い込んだりしたのには理由がある。この数日の疲れと言ったら喩えようがなく、週末は家に閉じこもってゆっくりするのだ、家のことなどもせずに本など読んで、と考えていたからだ。それにしたって、金曜日の夕食の後の記憶がない。食器を片付けながら眠い眠いと言い、相棒にそんなことは明日すればよいではないかと言われたところまでは覚えているが、そのあとの記憶が全くない。気が付いたら私はベッドの中に居て、土曜日が始まっていた。鳥の声が聞こえた。窓を開けてみるといつの間にか萌えた緑が美しく、花の匂いがした。天気の良い土曜日。何もしないと決めていたのに、洗濯をして、家じゅうの片づけをした。私はじっとしていられない性質らしい。しかしそれも元気だからこそできること。有難いと思う。家のことに一区切りがついたので、さて、本を読もうか、と椅子に腰を下ろしてみたが身が入らない。気候が良すぎるせいだ。暑くもない。寒くもない。こんな季節に家の中に閉じこもるのは不健康ではないか。と、身支度をして外に出て、ちょうど来た旧市街行きのバスに飛び乗った。

何をしたいとか、何を見たいとか、そういうプランは持ち合わせていなかった。ただ、外に出ようと思っただけのことだ。バスが旧市街に入ったところで下車した。いつも歩かぬところを歩くために。珍しいものもなければ、興味深いものもない路地を抜けたら、教会があった。そしてその筋向いには美容院があった。ああ、この道はここに出るのか、と思った。ここは昨年の夏の終わりに歩いた覚えがあった。その前にここを歩いたのはさらに1年も前のことだっただろう。あまり来ない場所なのだ。兎に角、昨年この店の前を通りかかったら、店の中から素敵な人が出てきて、声を掛けた。彼女は背丈が170センチは軽くあるような、溌剌とした若い人だった。素晴らしくスタイリッシュなショートカットで、身に着けているものもセンスの良い、ちょっとこの辺りでは見かけないような、少なくとも私の身辺には存在しないタイプの人だった。声を掛けたのは彼女の髪が格好良かったからだ。あなた、ここによく来るの?などと、見知らぬ東洋人が声を掛けてきたので彼女はびっくりしたに違いない。しかし彼女はこうした知らない人に声を掛けられるのに慣れているのか、それともそういう予想外のことが好きなのか、私の話し相手になってくれた。この店はいいわよ、と彼女が言った。満足しているの、とのことだった。爽やかな笑みで、また会いましょうね、と手を振って歩き去った人。そんな彼女が通う美容院に大変関心があった。なのに飛び込めなかったのは、勇気がなかったからだ。私は案外頑固で保守的な人間なのだろう。現在通っている美容院にはある冬偶然通りかかって気に入ってから8年ほど経つ。その前の店は10年以上通った。一度気に入ると、何かきっかけがないと変えることがない。変える必要を感じなかったのかもしれない。それでいて、私は少し不満を持ち始めていた。待ち時間が長すぎること。それから、他人の噂話が多すぎること。馴れ合いすぎてしまった感じとでも言ったらよいかもしれない。そろそろ潮時かな、と思っていたが、それでいて知らない店に入る勇気がなかったのだ。ところがどうだろう。目の前にあの店が現れて、まるで私を招いているかのようだった。ガラス越しに店の中を窺うと随分忙しそうだった。そうしているうちに中から客人が出てきたので、入れかわりに私は店の中に滑り込んだ。こんにちは。そういって入ってきた初めての客に、店の人たちは何と思っただろう。髪の手入れをしたいのだという私をすぐに椅子に座らせてくれた店の人たちの寛大さに私は拍手をしたい。後に分かったのだが、店は予約制なのである。ちょうど予約がひとつキャンセルになったらしく、パズルのように組み込まれたスケジュールの中に滑り込ませてくれたということらしかった。店は小さいが感じがよかった。私が外から覗いていたように、中からも外の様子がよく見えた。古いポルティコの下を行き交う人々。いつかこの店の椅子に座ることになるなんて、思ってもみなかった。何しろ知らない店に入る勇気なんて少しもなかったのだから。違う種類の顧客がいる店。なかなか客質は良いようだ。それから途中でハーブティーを振舞ってくれたのも新鮮だった。仕上がりは上々。また来るから、と満足の笑みを残して店を出た。こういうことが沢山ある。新しことをする勇気がないこと。やってみれば、なんだ、こんな簡単なことだったのだと思うのに。予定通りは簡単だけど、たまには突然や偶然を、えいっ、と掴んでみるとよい。

今日の私は思いがけず外に出て、思いがけずあの店に入って、至極爽快。それにしたって暖かく、旧市街には土曜日の午後を楽しむ人たちで一杯だった。こんな日に家に閉じこもるなんてとんでもない。外に出よう。外を歩こう。元気な限り、私は街歩きを楽しむのだ。




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