小さな地図

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近頃天気が不安定だ。晴れているかと思えば急に大風が襲い、やっと風がやんで穏やかになったと思えば雨が降る。随分温かくなったと思っていたが再び気温が下がってしまった。帰り道はコートの襟元をしっかり閉めて、帽子を目深に被らねばならなかった。夜空に輝いていた銀色の月が忘れられない。昨夜、見た月のことだ。美しいお月様。きっと素晴らしい天気の土曜日になるに違いない、と思っていたのに知らないうちに雨が降り始めた。静かに、人に知られないように息を潜めて降るような雨。これが春になる手順なのかと外の様子を眺めながら思った。もしそうならば、もう少しで私たちの春がやってくると言うことになる。
今朝、遅く目を覚ました。どうやら風邪をぶり返したらしい。それとも単なる疲れなのか。前者ならば性質が悪いが、後者ならば何とかなる。ゆっくりすれば直ぐに元気になるだろう。今日は家でゆっくりしようと決め込む。そうだ、先延ばしにしていた本棚の整理整頓でもしてみようか。整理整頓と言うのは簡単そうで時間が掛かる。大抵何かの紐を解いてうっかり出てきた古い手紙や写真に釘付けになってしまうからだ。案の定、と言ってよいだろう。うっかり出てきた小さな地図。使い込んだもので折り目の部分が擦り切れていた。私は何処か別の街に行くと大抵地図を手に入れる。ネットで街の概要や現在地点を確認できるようになった今でも、地図を手に入れて街を歩く習慣は変わらない。うっかり出てきたのはリスボンの地図。5年前の夏に手に入れたものだ。

真夏のボローニャからリスボンに降り立って驚いたのは陽射しの強さ。しかし風が吹くと何ともいえぬ気持ちよさに、此処が確かに海に近い街であることを感じたものだ。私が16日間借りたアパートメントは古い建物の5階だか6階だかで、聞いてはいたけれどエレベーターが無く、重い荷物を引きずって黙々と上にあがらねばならなかった。此処があなたのアパートメント、と家主がドアを開けたときの開放感。明るくて必要以上のものは取り払われた、私好みの部屋だった。16日間、何の約束もなければ、しなければならぬこともなく、朝起きて、さあ、今日は何処へ行こうと考えればよかった。真夏特有の照りつける日差しを除ける為に、路地を好んで歩いた。入り組んだ道には大抵影が落ちていて、そして大通りにはない、この街特有の色や形、雰囲気を見つけることが出来たから。こんな素敵な街だから旅人が放っておく筈が無く、何処へ行っても気軽な装いの旅人に出会ったが、時には路地に自分のほかには誰も居なくて、自分だけの宝の場所を見つけたような気分になった。こんな場所に何をしているのだと、上階の窓から住人が覗き込んでいたりして、私が無邪気に手を振って挨拶をすると、おや、まあ、いったいこの人は、とでもいう表情をして、それでも機嫌の良い声で挨拶を返してくれた。この街に住めば住んだで色んな不都合なことや困ったこともあるだろう。例えばイタリアに憧れて住み始めたとしても、何かしらの困ったことに出くわすように。外側から見るのと内側で感じることは必ずしも同じではないと言うことだ。いや、住んでみて初めて分かることがあると言うほうが正しいかもしれない。それでも私は、いつかこの街に腰を下ろしてみたい希望が湧き始めていた。坂が多いと言うのも私好みだった。坂を歩いていると、悩み事なんか消えてしまう。言葉を変えれば、悩んでいても歩いているうちに、坂の面白さのほうが心を支配してしまう、とでも言おうか。坂道を上り下りしているうちに辿り着いたのは食料品市場界隈。昼下がりと言う、活気のある時間ではなかった。私はその辺りを歩き回って、一軒の店に入った。カフェは外見こそガラス張りで今風だが、中は昔のつくりをそのまま生かしていて、カフェと過去が共存していて素晴らしかった。客層はいたって風変わり。その昔はヒッピーだったに違いないような初老の男性や、自由な発想を愛する夫婦と自由のびのびの小さな子供。時間が時間だけに込み合うことはなく、それぞれが他人を干渉しないような感じで、良い空気が流れていた。わたしは店の人の勧めで注文した爽やかな冷たい白ワインと、オーブンで焼いた地元のチーズと黒パン数枚がテーブルに並ぶと、忘れていた空腹にスイッチが入って、あっという間に平らげてしまった。どの街にも自分に合った空間がある。どの街でも口に合う食べ物にめぐり合える。こういうことを偶然の一言で片付けても良いけれど、私はそんな時至極の幸せを感じるのだ。此処に来るべくして来たのだ、と。まだ行ったことの無い街へと足を運ぶのが旅人ならば、私は旅人にはなれないと言うことになる。気に入れば何度でもいく。気が済むまで、飽き飽きしてしまうまで、何度だって足を運ぶから、行ったことのない街はずっと行かないまま。価値観の違いだ。良いとか悪いとか、決める必要は無い。大体人は皆違って当たり前。私が別の人と同じだったら、何とつまらないことだろう。

リスボンの地図を丁寧に畳んで束に戻す。此れをもう一度開くのは、何時のことだろう。それは誰にも分からないと言葉にしてみたら、案外早くやってくるような気がした。

3月。私たちの3月が愉しくご機嫌なものになればいい。




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コメント

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2017/03/04 (Sat) 19:40 | # | | 編集
Re: タイトルなし

鍵コメさん、こんにちは。リスボンは、素敵な街です。その素敵も、他の町とは少々違う素敵。まだ昔の人情が残ると言う意味での素敵と私は理解しました。それに気候も大変よく、一度は訪問して貰いたい街です。
鍵コメさん、心配です。とても心配しています。時には全てを横において休憩してみるといいです。時には自分を甘やかして可愛がってあげるといいです。

2017/03/05 (Sun) 00:11 | yspringmind #- | URL | 編集

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