静かな雨

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私が彼に出会ったのは、イタリアに暮らし始めて3、4年目だっただろうか。定かでないのは、その頃の私が様々な渦に巻き込まれていて、何をしてもうまくいかず苦しんでいたからだ。ローマから戻ってきたは良いが、相棒とふたりでボローニャ旧市街近くにアパートメントを借りたは良いが、うまくいっていなかった。思うように仕事が見つからなかったし、自分に出来ることも見つからなかった。ローマで得た活力は何処へ行ってしまったのか、自分に自信が無くなり始めたのが丁度その頃だった。途方に暮れていたと言ったらよいかもしれない。そんな時に知り合った人が彼に引き合わせてくれた。いい人だから友達になったらよいのではないか、などと言って。それに日本語を話す相手が居るのは、心強いのではないか、とも言っていた。確かに。私には日本語で話が出来る相手が欲しかった。初めて会ったのは、マッジョーレ広場。彼は不思議な印象の日本人だった。つかみどころがない。タイムスリップしているような感じでもあった。冬の終わりで、私達は冬のコートを着込んでいた。何時かな、と言いながら彼がポケットの中から取り出したのは、懐中時計などではなくて、直径8センチほどで厚みのある丸い目覚まし時計だった。しかも時間を知らせる時にアラームが鳴るようなものではなく、ジリリリリリと激しくなるような、旧式の目覚まし時計だった。腕時計が無いんだ、と言って笑う彼が、私には案外新鮮だった。二度目に会ったのは彼の家でだった。遊びにおいでよ、日本語の本があるんだよ。そんな誘われ方だった。彼は恋人と旧市街に住んでいた。とても質素なアパートメントで、地上階の小さな小さなアパートメントで、ドアを開けると直ぐ右手にキッチン、左手に小さなスペースがあった。他に小さな寝室とバスルームがあるらしく、細々と暮らしている様子が窺えた。でも、貧乏なわけではなく、質素な生活を楽しんでいるようだった。紅茶と菓子をご馳走してくれてくれた。君はきっと好きだと思うよ。そう言いながら差し出された本は俗にいう文庫本というやつで、ミラノの霧、と表紙に書かれていた。聞いたことの無い名前だけれどと言う私に、いいから兎に角読んでみたらいい、と言って、傍に置いてあった私の鞄の中に滑り込ませた。それがこの本と、そしてこの作者との出会いだった。本は、彼が言った通り、私が好きな類のものだった。そして、思慮深い、言葉を選んで文字を綴る須賀敦子という作者に、嫉妬すら感じた。けれども私が嫉妬し続けなかったのは、驚きの方が強かったからだ。知り合って間もない彼が、短い時間の間に私という人間を見抜いたことが、脅威でならなかった。彼とはその後数年に渡って友達付き合いがあったが、ある日突然いなくなった。ボローニャを出て行ってしまったからだ。人間付合いには、そういうこともある。残念だけど、縁がなかったと思うことにしよう。いいや、本当に縁があるならば、いつかまた何処かで会うに違いない。居なくなってしまったのは、彼の新しい出発なのだ、と思うことにした。あれから彼とは一度も会っていない。声のひとつも聞いていない。結局、縁がなかったと言うことなのかもしれない。でも、と私は思う。あの日彼が電話をしてこなかったら、あの日私が彼の家に行かなかったら、私はこの本に出合うことは無かった。私がこの本を好きなのは、単に描写力のある、丁寧な文章だからだけではなく、彼という存在が本に沁み込んでいるからだ。
雨が降ったのでそんなことを思い出した。雨が降るとじめじめするんだよ、この家は。と、地上階暮らしていた彼が言ったのを笑った覚えがある。でもいいじゃない、旧市街に住むなんてなかなかできない事なのだから、と羨む私に苦笑いを見せた彼。年上の恋人に大切にされていた彼が、春を待たずに突然出て行ってしまったことを思い出させるのが雨。今頃どうしているのだろうと思わせるのは静かな夜の雨。

彼がいつか言ったことがある。君は運のいい人なんじゃないかと思う、と。そうかなあ、いいこと全然ないけれど、と笑う私に、自分が気が付いていないだけだと言った。其の言葉が、あれから十何年も経つのに、未だに心の隅っこでふわふわ浮かんでいる。




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コメント

はじめまして。更新されるのをいつも楽しみにしている読者です。初めてこちらの文章を読んだ時に、須賀さんのご親戚の方かなと思ったほど、同じ雰囲気を感じていました。まるで本を読ませてもらってるみたい。日本でイタリアの空気の匂いを五感で感じることができるというか・・・。これからも素敵な人生を!

2017/02/05 (Sun) 06:58 | GINKONKON #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

GINKONKONさん、はじめまして。更新が思うように進んでいない昨今ですが、楽しみにしてくださっているとのこと、ありがとうございます。私と須賀敦子さんの共通点は、単にイタリアに住んでいる、住んでいたことだけだと思いますが、物の見方や感じ方が多少ながら似ているかもしれませんね。というのが、私が彼女の本を初めて読んだ時に感じたことでしたから。イタリアの空気の匂いを五感で感じる、というのは面白い表現です。そんな文章を書くことが出来たら、本望です。これからもお付き合いお願いいたします。

2017/02/05 (Sun) 22:17 | yspringmind #- | URL | 編集
No title

いつも拝見していながらコメントを書けないままでした。
今日はチョットだけ余裕ができたので。

で、その彼はお若い方だったのか…そうであれば、老成した方なのかな、っと思ったりしながら、今どこでどうしているのかと想像してしまいます。
同時にお二人を引き合わせた方の存在が心に残ります。日本では私も同じ役回りばかりなので。
今度、須田敦子全集(文庫版)でも読んでみようと思います。時間があればですが。

2017/02/06 (Mon) 06:43 | Via Valdossola #P6wRKz4w | URL | 編集
Re: No title

Via Valdossolaさん、こんにちは。お忙しいんですねえ。日本に暮らすというのは忙しいことなのでしょうか。それともVia Valdossolaさんの仕事が忙しすぎるのでしょうか。
彼は私より多分10歳くらい若かったのではないでしょうか。いや、もう少し差が少なかったかもしれませんが、飾りっ気が無くて、そんな印象の人でした。若いのに妙に落ち着いていて、人と競い合うこともしなければ、見栄を張ることもない。自分は自分。そう言う人でしたね。年上の私の方が教えて貰うことが多かったように覚えています。今は東京の何処かに居るような気がします。何の連絡もなければ風の便りもありませんけれど。私達を会わせたのは、これまた若い日本人の女性で、若くて怖いもの知らずで、えー、この日と大丈夫かな、なんて思ったことがありました。結局彼女とは二度会っただけ。彼との友人付き合いのほうがずっと長く続きました。
須賀敦子さんの本を読んでいると、どんなことも面倒くさがらずに丁寧に表現されていて、地味にコツコツ、なんて印象がぴったりでした。この地味にコツコツこそが、実は簡単そうで一番難しいのではないかな、文章を書く上では、と思いました。

2017/02/06 (Mon) 21:41 | yspringmind #- | URL | 編集

こんにちは、yspringmindさん。
彼は、どこに行ったんでしょうねえ。

2017/02/08 (Wed) 14:07 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、彼は日本に帰ったのだと思います。イタリアよりも日本の方が肌に合ったのかもしれませんね。

2017/02/11 (Sat) 15:27 | yspringmind #- | URL | 編集

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