オレンジの匂いがする

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猫というのはそういうものか、と思うことがある。例えば掃除機を掛けていると怪獣が来たみたいに飛びのいて、何かのカバーの中に逃げ込んだり。例えば何かのお祝いで、それとも気分を盛り上げるためにシャンパンの栓を派手な音を立てて抜いたりすると、ヒャーと言わんばかりに飛び上がったや否や家具の下に逃げ込んでしまったり。そうかと思えば建物の階段を上がってくる足音を聞き分ける能力があるのか、家の扉を開けると真正面に三つ指をついて待っていたり。この2年間、猫を通じて色んなことを考えた。うちに、この猫がやってこなかったら考えることもなかったようなことばかり。うちに猫が来て、良かったと思っている。

何時もの生活に戻って2週間が経つ。たったの2週間。でもずいぶん経ったような気がするのは、夕方の空が明るくなったから。じきに仕事帰りの散策が楽しみになるだろう。明るい夕方、そしてほんの少し寒さも緩んで。今日は朝から空の機嫌が悪いらしく、鼠色の雲が立ち込めていた。空気を入れ替えようと思って窓を開けたら、寒い。思わず窓をぴしゃりと閉めた。一頃のような恐ろしい寒さではないにしても、油断はならぬ、注意しなければならない。だから、こんな空の日は家に居るのが一番、と思っていたが、折角の土曜日なのだから散歩でもしたらどうだい、まるで冬眠している小動物のようじゃないか、と相棒に促されて外に出た。
サルディが始まって2週間経った旧市街。割引率が大きくなったようだ。2月にもなると春物がショーウィンドウを飾り始め、サルディとは言え、人々の冬物への関心が急激に下がるから、早いところ売りつくしてしまおうと言うことなのだろう。事実、私は既に冬物への関心を失ってしまった。冬物はもういい。それよりも春先の軽快なものを見たい。だから、冬物とは言え檸檬色のコートや軽快な色が飾られているのを見つけると、吸い込まれるようにショーウィンドウの前で足を止める。さて、土曜日。食料品市場界隈は大変賑わっていた。2軒続きの魚屋は今日も大変な繁盛ぶりで、前を通過するのが大変だった。青果店は何処もオレンジが山積みだった。今が旬。シチリアのオレンジは今が旬だ。店の人がオレンジをひとつ剝いて客に試食させていた。剝いた瞬間、ふわっといい匂いが辺りに漂い、私はあっという間に15年前に連れ戻された。
15年前に相棒とシチリアへ行った。シチリアまでの旅は車で、全く長い道のりだった。車の運転は苦にならぬ相棒ですら、長くて長くてどうしようもなかったようだ。私達はホテルも予約してなければ、今日は何処へ行くと言った予定もなかった。思いついたところにホテルの部屋をとり、朝、気が向いた方向に車を走らせればよかった。3月初旬。ボローニャではまだカシミヤのセーターや重いコートを着こんでいたと言うのに、此処では誰もがコットンのシャツに軽いジャケットという装いで、まるで異国に来たような錯覚を覚えた。スカーフをしない首元が寒くない気候。私はボローニャに暮らし始めて以来、何故イタリアが南欧と呼ばれているのだろうと首を傾げてばかりいた。何故ならボローニャときたら11月から4月初めまで寒く、とても南欧などとは呼べない気候である。しかしシチリアならば話が違う。確かにここは南欧と呼ぶのにふさわしい気候と空気があった。私達が最初に泊まった海辺の街。メッシーナやタオルミーナを通過して、小さな漁村に部屋をとった。観光シーズンが始まっていないらしく、小さなホテルの部屋はふたつしか塞がっていないとのことだった。いい部屋をあてがいましょうとホテルの主人が言った通り、私達の部屋の大きな窓を開けると小さなテラスがあり、その先には海があった。夏には沢山の人達が来るらしいこの村も、今はまだ人が居なくて静かだった。翌朝には別の街へと発つつもりだったのに、もう1泊したくなったのは波の音に耳を傾けながら眠りに就くのが素敵だったからだ。そんなことをホテルの主人に話すと、同じような人達が居ると言った。隣の部屋に泊まっているアメリカ人夫婦。まだ、仕事を引退するには早すぎる年齢の人達。彼らはこの辺りにあるゴルフコースでゴルフを楽しむ人達で、毎年この時期にやって来る。他にも気の利いたホテルは沢山あるのに、この漁村の小さなホテルを常宿にしているのは、波の音が聞こえるかららしい。波の音を聞きながら眠りに落ちる。そんな経験はあれはが初めてだった。漁村はぐるりと歩けばあっという間にひと回りできてしまう程、小さかった。内側にある商店街や広場に並ぶ街路樹はオレンジの樹。誰も実を捥いで食べようとしない。捥いではいけないのかもしれないと思いながらも、人目を盗んでオレンジに手をのばそうとしたところ声を掛けられた。ひゃ。叱られるのかと思ったが、そうではなかった。これよりもあっちの方が美味しい筈だと、と、おじさんは上の方からオレンジを捥いでくれた。ありがとう。礼を言ってホテルに持ち帰ったオレンジ。皮を剝くなり、ふわっといい匂いが広がった。食用として育てられている訳ではないオレンジの樹だから味は大して期待していなかったが、太陽の光をたっぷりと吸収した、温かくて甘酸っぱくて、私達を充分喜ばせてくれた。オレンジの匂いがすると、何時も15年前に引き戻されるのは、そんなことがあったからだ。私は内陸にばかり居過ぎるようだ。光る波。穏やかな気候。シチリア。また行きたいと思う。

温かいカップチーノを頂こうと思って近所のバールに立ち寄ったら相棒と一緒になった。何かいい物あったかい?と訊ねる相棒。嬉しそうな顔をしている私が、サルディで何かいい物を見つけたと思ったのかもしれない。うん、シチリアのオレンジの匂いがした。そう答えたら、彼も15年前のあの日のことを思い出すだろうか。




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