凍える夜

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休暇最期の日。明日からいつもの生活が始まるから、出来る限りのことをしておきたくて、朝からあれもこれもと忙しい。でも、ストレスはない。何しろ16日間も休養したのだから、これでストレスがあるなどと言ったら罰が当たるというものだ。
それにしても寒い。今朝起きたら零下5度だった。昼になって太陽が出たが、やっと零度になっただけ。久しぶりにこんな寒さを体験して、しかしながら何処へ出掛けなくてはいけないこともなく、ぬくぬくと家の中に居ることが出来るのだから感謝である。昨晩テレビの報道で、イタリアの多くの地方で雪が降ったことを知った。北イタリアの山沿い地方は当たり前としても、南イタリアのプーリア州やシチリアで。それから数か月前に地震で大きな被害があった一帯でも。夜中には氷点下18度にも下がるらしく、簡易住宅の充分な暖房設備がない中で生活する人々のことを思うと、辛い気持ちになった。それから家の無い人々。つまり何かの理由で都市の路上で生活する人々のことである。法王の提案で国、又は市が用意した車の中で寒さをしのげるようにしたそうである。なかなか良い案だと思うけれど、どれだけの人達がその恩恵にあずかれるのだろう。これを機会に彼らが路上での生活に見切りをつけて普通の生活に戻ろうと、そして戻れる状況を周囲が作れたらよいのにと思ったけれど、口で言うのは何と容易いことか。少しづつ、少しづつ良い方向に動いていくこと。それが私の小さな願いである。

アメリカに暮らして2年目になるかならぬかの頃のことだ。ありったけの貯金を携えて始めたアメリカ生活だったが、生活費や学費、それから時には小旅行もしているうちに貯金が殆ど底をついてしまった。特別贅沢した覚えはなかったけれど、要するに貯金が充分でなかったのであろう。それとも経済観念が無かったせいかもしれない。しかし、出ていく一方で入ってくるものが無かったのだから、当然と言えば当然だった。そんな時、知人の紹介で運よく職を得て、生活費と学費に困ることなく、食費だけ節約すれば何とかなるところまでこぎつけた。このままいけば直に食費も充分確保できるようになるだろう、と安堵の溜息をついたころ、私は病気になった。酷い高熱で、頭が割れるように痛かった。立っているのも辛いほど弱っていて、医者に行こうと思ったところで気が付いた。日本で掛けてきた医療保険の期限が切れていたのだ。私は途方に暮れて、何とかならぬかと祈りながら、感じが良いので評判の日系アメリカ人の医者に電話をした。医者は親身になって話を聞いてくれたが、保険が切れていたらどうにもならない。まともに診療を受けたら高額請求書を受け取ることになると言って、無料の診療所を薦めてくれた。それはミッション地区の、元気な時でも出来れば行きたくない界隈だった。医者は其れも承知だったが、しかしその高熱と頭痛を放置しておくよりは良いから、と言って私に住所と電話番号を渡して静かに電話を切った。私はあの医者を恨んではいない。寧ろ、大変親身に話を聞いてくれて有難かったし、無料診療所を教えてくれたことにも感謝していた。実際私はその後、無料診療所に電話をしてみたのだから。ただ、電話の第一声が、ヒスパニック系の強いアクセントの英語だったこと、私自身が話をうまく出来なかったことで、結局そこへ行く勇気が無くて諦めてしまったけれど。私が運が良かったのは、私の様子を見かねた職場のひとりが、カトリック教会が営む診療所に連れて行ってくれたことだった。初めの10人だけ無料で診てもらえるそうで、早朝だるい体に鞭を打って列に並ぶべく診療所へ行った。診療所があるのは低所得者が住んでいると呼ばれる、旅行者は近づかないほうが良いと言われる危険な地区だった。ミッション地区も其処も似たようなものだった。だから同僚が同行してくれたことは全く心強いことだった。結果から言えば私は10人に入っていなかったが、同僚のおかげで無料で診療を受け、検査をして、必要な薬を得ることが出来た。その後も幾度か通って完治することが出来たのだから、私は本当に運が良かった。もう25年くらい前のことである。そんな昔のことなのに、私が今でもよく覚えているのは、早朝に診察を受けるために並んでいた人々の様子があまりに印象的だったからだ。私の前には日本人の、年の頃は25歳ほどの女性が居た。何時から並んでいたのか、古い毛布にくるまって眠っていた。彼女が着ていたのは、その当時よりも何年か前に日本で大変流行した紺のダブルのマリンジャケットでだったから、彼女がその頃アメリカにやって来たことが想像された。彼女は薬物を常用しているらしく、目の周りは黒いくまでまるで死人のようだったが、時々悪い咳をすることでまだ息をしていることが分かった。彼女の前に居るのはどろりとした装いの男性。アルコール中毒だろうか。その前に居る人は。それから、その前の人は。恐らく皆、路上で生活する人達。今までの私の生活には存在しない人達が前後に並んでいた。そして私はその列の中のひとりだった。傍から見たら私は異質な存在だっただろう。そして私は周囲の人達を異質な存在として怯えた。でも、誰にもわからない。どうして彼らそんな風になったかなんて。もしかしたら裕福な人達だったかもしれない。何かが起きて転がり落ちるようにして家を持たない路上の人となったのかもしれない。それは其の人にしか分からない。そしてそれを訊こうとする人もいない。私は必要なものは皆与えられ、守られて育った温室育ち。初めて見た現実だった。これはアメリカ生活の中でも忘れがたいことのひとつ。そして忘れたくない事でもある。かけがえの無い経験と言っても良かった。
その2年後だっただろうか、ノードストロームの前の横断歩道の向こう側から、お洒落をした日本人女性がアメリカ人の男性と腕を組んで歩いて来るのを見て驚いた。紛れもなく、私の前に丸くなって眠っていた、時々悪い咳をしていた彼女だった。健康そうな顔色で、もう目の周りのくまは無かった。崩れたところはひとつもなく、幸せそうな彼女。あれから人生を立て直したのだろう。良かった。色んな人生がある。どれが良くてどれが悪いなんて他人が決めることではない。誰にとってもたったひとつの人生。苦しんだり試行錯誤しながら進んでいく。苦労した分だけ、望んでいた生活を手に入れた喜びは大きい。私は知っている。それから、横断歩道で再会した彼女も。

外は氷点下の世界。月が驚くほど輝いて見える。こんな晩は旧市街の広場はさぞかし美しいことだろう。ポデスタ宮殿の橙色の灯り。重圧なサン・ペトロニオ教会。空高く輝く月を眺めながら歩いたら、美しい詩でも書けるだろう。いいや、こんな凍えるような寒さでは、尻尾を巻いて逃げるだろう。




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コメント

こんにちは、yspringmindさん。
話を聞かせてくれて、ありがとう。
ほんとうに、温室育ちに慣れて。

yspringmindさんの、彼女も自分も生活を立て直してという言葉に、なんとも言われない気持ちになりました。自分を振り替えってです。

2017/01/11 (Wed) 13:38 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。私は自分の甲斐性なしと経済観念の無いこと、計画性の無いことで、一時期大変貧乏しました。あの時は辛かったけれど、あれを乗り越えたことで随分自信が付きましたよ。私が困っていた時に他人が助けてくれたから、そういう経験があるから、私は本当に困ったことになっている人をみると、何かの形で手を貸したいと思うのです。そう思うと、貧乏をしてよかったと思うのです。

2017/01/13 (Fri) 23:52 | yspringmind #- | URL | 編集

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