月が見ていた

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土曜日。今日は張り切って起きたくせに、家を出るのがやはり遅くなった。最近作業の手が遅くなったらしい。何をするにも時間が掛かる。別にじっくり丁寧にしているつもりもないから、多分単純に手が遅くなったのだろう。つまり鈍くなったということか。そう考えれると少しばかり落ち込むが、別に先を急いでいる訳ではないから、のんびり行こうよ、と自分に声を掛けて気を取り戻す。特に忙しかった一週間の週末は。

クリーニング屋に衣類を預けてバスの停留所へと歩きだして直ぐに気が付いた。小さなバール発見。目と鼻の先にこの辺りでは名の知れたバールがあると言うのに、どうしたことか。一瞬足を止めてガラス越しに眺めたら、朝食用の甘いパンが沢山並んでいた。店主なのか、若い女性が中に居て、外から眺めている私を見つけるとにっこり笑った。なかなか魅力的な女性だった。もし私がまだ朝食を済ませていなかったら、この笑顔に誘われて店の中に入っただろう。さて、この店に常連はつくだろうか。何しろこの界隈の人達といったら、昔ながらのバールに通う人達が多いから。
旧市街に入るなりバスを降りたのは、歩きたかったからだ。それからバスの中の異常な暑さも耐えられなかった。街の中心へと続くポルティコの下を歩いた。連なる店は何処もクリスマス仕様で、眺めているだけで楽しくなる。歩いては足を止めるゆっくりの私を追い抜いて行った大柄の青年。足元を見たら紐に繋がれた子犬が居た。青年の歩調が子犬には早いらしく、一生懸命走っている。その姿が妙に可愛くて、誰もが振り向いて微笑んだ。あんな大柄の青年がこんな子犬を連れていることも楽しかった。ああ、土曜日というのは気持ちが緩んでいるせいか、楽しいことが直ぐに見つかる、と嬉しくなった。そう言えば今日は月の第二週末で、骨董品市の日であった。いつもに増して混み合った骨董品市。そしてその周囲のバールというバール、カフェというカフェは満員で、アメリカの、クリスマス前の週末を思い出させた。何を探すでもなくそぞろ歩く人々。私もそのうちのひとりだった。絵画を眺め、骨董家具を物色し、古本を横目で見ながらもう少しで市場の外に出るという辺りで見つけた。店はビンテージものを扱っているらしく、例えばクロコダイルの小さなハンドバッグや良質のシルクスカーフなどを並べていたが、同じテーブルの左端に大量の布地を積み上げていた。布地と言っても単なる布ではないらしく、どれを見ても美しく、上質なものらしかった。其処には先客が居て、見るからに品の良い年配の女性だった。こんな人が骨董品市に来ていること自体珍しいと思ったのは、大抵こんな人達は贔屓にしている店があって、其れは大抵旧市街に古くからある、私など足を踏み込むのを躊躇してしまうような店なのだ。こうした人達が自ら店に行くこともあれば、店の人が家に出向くこともある。兎に角そんな感じの女性だったが、私の目を引いたのはその彼女が手にしていた布地だった。こういうのをゴブラン織りと呼ぶのかもしれない。ただ、私が知っているゴブラン織りとは色合いが異なっていて、美しい緑とか山吹色とか紫とか、どれもが実に鮮やかで、斬新、そうだ、斬新と表現するのが相応しかった。女性は店主と一緒に布地を広げて大きさを確認しているようだった。幅は1メートル以上あるように見える。長さは3メートルもない。女性は何かに使いたいと思っているらしく、この大きさで充分かどうかを検討しているらしかった。彼女たちの話に耳を傾けてみたら、此の布地を行きつけの店に持ち込んで、テーブルの上を覆うタペストリーのようなものを作ろうと考えているらしかった。そう言えば15年程前、私の知人がそんな感じのものを使っていて、私は酷く感心したものだった。テーブルの大きさは、と言う話になって彼女は困ってしまった。すると決心したかのように言った。此の布地を少しの時間、何処かによけて置いて貰えないだろうか。店主は一瞬顔を曇らせたが、30分だけならば、と了解した。すると彼女は喜んで、10分あれば充分、家は背後の建物だからと言った。店主も、聞き耳を立てていた私も、店に居合わせた人達も一瞬目を丸くして背後の建物を見上げた。其れは素晴らしい、15世紀辺りに建てられたに違いない歴史的建物で、美しい窓ひとつとっても溜息が付くようなものだった。普通の人が手に入れることの出来ない住居。私が初めに、こんな人が骨董品市に来ていることが珍しいと思ったのは、満更外れてはいなかったようだ。女性はちょっと待っててちょうだい、と言うと建物の中に消えていき、店主と私は、あら、びっくりねえ、と顔を見合わせた。この広場に面して建つ歴史的建物の多くはデザイン会社や弁護士事務所や仕事に使われているようだけど、代々引き継がれてきた住居を手放さずに、此処で生活する人達が本当に存在する。そんなことを考えていたら、ボローニャの歴史の本を読んでみたくなった。

沢山歩いたので少し疲れた。疲れたけれど、気持ちの良い疲れだ。今夜は赤ワインの栓を抜こう。栓を抜くのを渋っている相棒を説き伏せて、あの、2003年のあれを。
ふと誰かに見られているような気がして顔を上げたら、窓の外の遠くの空に美しく光る月があった。あと数日で満月になるのか、左側が少しだけ欠けていた。月に見られていた。そんなことは感じたこともなければ、考えたこともなかったので、ほんの少し驚きで、そして妙に嬉しくなった。月が私を見ていたなんて。




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