ローザエレナのこと

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ローザエレナのことを思い出したのは、本当に久しぶりのこと。旧市街を歩いていた時に、ふと思い出した。

彼女と知り合うことになったのは、私がローマからボローニャに戻る条件として出した、旧市街に歩いて行けるような便利な場所のアパートメントが始まりだった。其処は相棒が知人から教えて貰って運よく手に入れた場所だった。広いテラスのある狭いアパートメントで、しかし其れも二人暮らしならば十分だった。家賃が相場よりも随分と安かったのは、壊れたものは自分たちで直すことが条件だったからだ。キッチンの流し台どころか照明器具ひとつ付いていないアパートメントに入って、私は目をぱちくりさせるばかりだったけれど、やっと落ち着いて相棒と気ままなふたり暮らしが出来るのかと思えば何とかなりそうな気がした。
私達の隣人はイラリオとゼリンダの老夫婦だった。ふたりとも80歳を目に前にした年の頃で、子供はいないとのことだった。だから、隣に越してきた私達をとても可愛がってくれた。可愛がってくれた理由はもうひとつあったて、私達がアメリカに住んでいたことだった。それはイラリオの姪っ子がNYに住んでいるからだった。確かアリタリアか何処かで働いていて、アメリカ人の夫と暮らしているとのことだった。夫はワインの輸入業者かなにかで、一年に一度は夫婦でイタリアにやって来ては、上等なワインを沢山買い込むのだと聞いたことがある。兎に角この姪っ子夫婦はイラリオの大変なお気に入りで、この姪っ子がローザエレナだった。イラリオはその昔、大きな煙草工場の上役で、周囲から随分とちやほやされていた分だけ威張りん坊だった。そんな夫を持ったゼリンダは、大変辛抱強く、優しく、寛容だった。当然のことながら相棒と私はゼリンダが大好きになり、時々隣に呼ばれては一緒に食事などをしたものだ。それからこんなこともあった。私が熱を出して寝込んでいると知ると、温かい食事を作って持ってきてくれた。だからゼリンダが困っていると知れば、相棒も私も何を置いても彼女の元に飛んで行った。ふたりが隣の家を売って少し向こうに引っ越していったのは、階段の上り下りが困難になり始めたからだ。隣人関係は無くなったけれど、私達は相変わらず交流があって、食事に招いて貰ったり、手伝いに出向いたりした。そのうちイラリオが寝込み、入院して、帰らぬ人となった。ゼリンダは夫が居なくなって淋しかったが、晩年は身体が自由に動かない分だけ威張りん坊度が増していたから、それらに開放されてほっとしているようにも見えた。ほっとしたのは出入りをあまり喜んで貰えなかったゼリンダの友人たちも同様で、ゼリンダと長い付き合いのある老女はやっと頻繁に会うことが出来るようになったと言って、週に何度も訪れるようになったそうだ。そのうち私うたちは老女の家に招かれるようになった。彼女は結婚をしなかったから、戦争で家族を失ってから、ずっと独りぼっちだった。旧市街の端っこにアパートメントを所有していて、この家には愛着があるがエレベーターが無いから上り下りが大変で、と言いながら最上階の自分の家に登っていくのだった。彼女の家の天井には梁が横たわっていて、旧市街だけれど田舎の一軒家のような味わいがあった。私がそう言って褒めると、そうなのよ、だからこの家から動けない、と言いながらエレベーターさえあればねえ、と溢した。ある日、彼女のアパートメントの建物の入り口で夫婦者と一緒になった。挨拶を交わして一緒に建物に入り、階段を昇って行った。夫婦者は最上階の自分たちの家の扉に鍵を差し込み相棒と私は老女の家の扉を叩いた。そうして老女が顔を出すと、あら、ローザエレナ、帰って来たの? と言った。ローザエレナ。訊いたことのある名前だ、と相棒と顔を見合わせていると、老女がまるで当り前のことのように、ローザエレナよ、知っているでしょう? ゼリンダのところの、と言った。私達は何度もその名前を耳にしていたがついに一度も会ったことが無かったものだから、ああ、これがローザエレナなのだ、と驚いた。驚いたのは彼女も同じだった。まさかあなた達は、ゼリンダのお気に入りの夫婦なのでは、と言って、そうと分かると私達をまるで旧知の仲のように腕を大きく広げて包み込んだ。彼女は続けて言った。あなた達のことは話に聞いていたけれど、ほら、おじさんはあんな人でしょう? だからあの家には近寄らなかったのよ。それを聞いて、あれほどイラリオは姪っ子のことを自慢していたのに、姪っ子は彼のことを嫌っていたのだと知り、ほんの少し辛くなった。しかし仕方あるまい。確かに彼は本当に頑固もので我儘だったから。
それからである。私達がローザエレナの夫婦に会うようになったのは。とは言っても夫婦の生活の場はアメリカだったから、年に数回戻ってくるときに声が掛かるだけだけど。ボローニャの旧市街の家はローザエレナの両親が残していったものらしく、此処に腰を据えて住むことはもうないかもしれないけれど、売らずにとっておきたいのだと語ったのは、15年くらい前の夏の熱い夕方のことで、私達は彼女たちが招いた10人ほどの友人知人の一部だった。この家に住んでいた頃のこと。学校に行く時、道を歩いている彼女に母親が窓から手を振ってくれたこと。この家が窮屈に感じだして、何時か飛び出したいと思っていた頃のこと。そうして本当に飛び出した時のこと。彼女の記憶はとてもはっきりしていて、私達は其の言葉に耳を傾けながら、その頃の様子を想像したりした。一生アメリカに居たいかと思えばそうではない。ならばボローニャに帰ってきたいかと言えばそうでもない。自分の家が何処だか分からない。もしかしたら両方が自分の家なのかもしれないけれど。別れ際に彼女が私に向かって呟いた言葉を忘れない。もしかしたら、私への問いだったのかもしれない。随分の年月が過ぎてからそんな風に思うようになった。

ローザエレナは今頃どうしているだろう。最後に声を聞いたのは2、3年前のこと。そろそろ70歳になる筈だ。アメリカとボローニャを往復するのがしんどくなっていやしないだろうか。それとも答えが出たのかもしれない。どちらに腰を据えるか。どちらに心を残すか。でも、曖昧であってもいいと思う。曖昧であった方が良いことはも、世の中には沢山あると思うから。

周囲の人達が皆老いていく。そういう自分も年々年をとっている。歳月人を待たず、とはよく言ったものだ。時間を止めることなど誰にもできないのだ。




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