美味しい生活

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昨夕、旧市街に立ち寄ったのはATTI に立ち寄りたかったからだ。街の誰もがATTI とひと言で呼んでいるけれど、Ditta Paolo Atti & Figli という長い正式名を持っている。ただ、ATTI と呼ぶだけで誰にでも通じてしまうから、普段はその長い正式名を耳にすることはあまりない。この店には毎週のように立ち寄る。夕食用のパンを購入するため。相棒は勿論のことだが、私にしても何時の頃からかパンを食べることが普通になった。だからパンが無いと気が付いた晩は、深い後悔を感じるのだ。他にも贔屓にしているパン屋があるけれど、この店のパンの旨さは金色の折り紙付きと言っても良い。あの、もっちりとしたパンの旨さ。閉店前に完売してしまうから、仕事帰りに立ち寄る私は何時だってはらはらしてならない。気に入りのパンはまだあるだろうか、と。さて、昨夕は案の定パンがひとつも無かった。売り切れよ、と店の女性が言わなくとも、彼女の背後に置かれた幾つもの空の籠を見れば分かった。しかし折角来たのだからと、菓子を買い求めることにした。カスタニャッチョと言う名の栗の粉で作った焼き菓子と、テネリーナと言う名のチョコレートの焼き菓子。どちらも平凡で見掛けはぱっとしないけれど、どちらも甲乙つけがたいほど美味しい。丸ごと買う必要はなく、店の人がどのくらい?と訊いてくれたら、このくらい、と答えればよい。このくらい? と店の人が菓子の上にナイフをかざしてくれるから、そうそう、そのくらい、などと返事をする。こうしたやり取りが好きだ。私が大型店での買い物は好きになれないのは、こうしたことが理由のようだ。私がもうひとつこの店で好きなのは、パンを取り扱う人と、会計でお金を取り扱う人が分かれていることでもある。注文したパンや菓子を包んで貰っている間に、支払うべき金額が記された小さな紙切れを持って会計で代金を払い、そうして先ほどの場所に戻って包み終えた商品を受け取る。こうした昔ながらの方法を面倒くさいと言う人もいるだろうけれど、私はこうした昔ながらが、どうしようもなく好きだ。行く先行く先で話をする。言葉なしでは成立しないやり取りがある。私がボローニャに暮らし始めてから、イタリア語を話せるようになりたいと熱望した理由はこんなところにあったのかもしれない。例えば私がフランス語を何としてでも話せるようになりたいと思うのも、そんなことなのである。しかし、フランス語は手ごわい。ああ、あの美しい言葉は。いったいどんな風にしたら発することが出来るのだろう。
店を出て、角を曲がってもうひとつのATTI に行った。ATTI は同じ一角に2軒あるのだ。私が何時も足を運ぶのは、食料品市場界隈の小さな店。もうひとつは商工会議所の方に歩いたところに在る、広くて美しい店。どちらが古いのか知らないけれど、もしかしたらどちらも同じように古いのかもしれない。私の調査によれば、パンの売れ行きは小さい店の方がダントツで、こちらでパンが売り切れの時は、広くて美しい店に行けば何かしらが手に入る。それで私はパンを求めてもうひとつの店に行ってみたら、あった、やっぱりあった。店の人がパンというパンを大きな紙袋に詰め込んでいた。これらのパンの行き先は、もうひとつの小さなATTI である。私は慌てて、待ったをかけて、其の中から好きなパンをひとつ売って貰うことに成功し、大きな笑みを浮かべながら、もう少しで行き違いになるところだった、私は向こうの店から来たのだ、と言うと、正しい判断だったと言いながら店の人が声を上げて笑った。どの人も前から働いている。私が覚えている限り、この店で働く顔ぶれは滅多なことでは変わらない。働く人達が店に愛着を持っているからなのかもしれないし、店が働く人達を大切にしているからなのかもしれない。まあ、そんなだから、この店はボローニャの人達に愛されているのかもしれない。

持ち帰った菓子を夕食後に相棒と分け合って頂いたが、まあ、なんと美味しいこと。滅多にこれは美味しいと褒めない相棒が、なんだ、なんだ、美味いじゃないか、というのでATTI で購入したのだと教えたら、成程、其れじゃあ美味しいのも当然だね、と言葉もなく顔で表現した相棒を、ああ、この人は本当にイタリア人なのだなあと思った。
また近いうちに立ち寄って、美味しい菓子を少し、家に持ち帰ることにしよう。美味しいものがある生活。止めようなんて気は、到底ない。




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