空が青い

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昔、私がボローニャに暮らし始めた頃、友人の母親ルイーザがこんなことを言ったことがある。あそこの薬屋さんには日本人の薬剤師が居る、と。ルイーザと彼女の夫は旧市街の中でも旧市街をぐるりと囲む環状道路にほど近い場所で花屋を営んでいた。花屋と言っても切り花だけでなく、広々とした中庭に温室も持っていたし、庭に植木もあったから、植木屋と言っても良いほどだった。私がルイーザと話をするようになったのは、ある日友人に頼まれて母親のところに預けられた小さなふたりの子供の相手をしに数日続けて行ったからだった。友人と彼女の夫は何処かに休暇に行って留守だった。確か限りなく冬に近い秋のことだったと思う。ルイーザの住まいは花屋と同じ建物の一番上の階にあった。一番上と言ったって日本式に言えば3階建ての建物だったから、たかだか3階だったけど、何しろ古い建物で天井がとても高かったから、彼女の家の窓から眺めると随分高い位置に居るように感じたものだ。私が駆けつけてきたことをルイーザはとても喜んでいた。仕事をしながら小さな孫をふたり面倒見るなんて無理だわ、と言って。太陽の光が暖かい時間は庭で遊び、夕方になって湿度が増して冷え始めると、私は子供たちを連れてルイーザの家に上がって行った。どんなことをしただろうか。もう覚えていない。絵を描いたのかもしれないし、本を読んだのかもしれない。唯一言えるのはテレビを見なかったことだった。友人は子供たちにテレビを見せたがらなかったから。夕食にはまだ時間があった。でも少し小腹が空いたなと思う頃、大抵ルイーザか彼女の夫が上がってきた。私達におやつを用意するために。温かいお茶と焼き菓子を出してくれた。私はそうした時間が好きだった。とても温かくてこの家族らしいと思った。ルイーザが、あそこの薬屋さんには日本人の薬剤師が居る、と言ったのはそんな時だった。とても素敵な女性で、でも日本語は話せないらしいと言うのがルイーザの意見だった。何やら母親が日本人で、彼女はボローニャで生まれたらしい、と。あそこの薬屋さんとは、其処の大通りに面した小さな店のことだった。近所だからルイーザはいつもそこに行くらしく、日本人に薬剤師にことをよく知っているらしかった。それでルイーザは、あなた今度行って話をしてみたら、と私に勧めたわけだけど、用もないのに薬屋へ行くなんて妙なことだし、それに日本語が話せないなら、一体どうしろというのだ。私はまだイタリア語をろくに話すこともできないのに。ということで、彼女の提案を有難く思いながらも結局薬屋に行って彼女を訪ねることは無かった。そんな昔のことをどうして今頃思い出したのかと言えば、ひと月ほど前にその薬屋の前を通ったからだった。まだ彼女は居るのかしら。咄嗟にそんなことを思った。まさかねえ。20年も前のことなのだから。そう思いながらも、まだ居るような気がして中に入ってみたい衝動にかられた。今の私なら彼女と話が出来る筈なのに。今の私ならば様々なことを話せるのに、と。

秋が深まっている。空が青いのは空気が冷たいせい。空が青い日は、ボローニャの赤い壁が美しく見える。いつもは短いボローニャの秋は、今年に限っては少し長めで、私を心から喜ばせてくれる。




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コメント

No title

yspringmindさん、こんにちは。

>まだ居るような気がして中に入ってみたい衝動にかられた。
>今の私なら彼女と話が出来る筈なのに。今の私ならば様々なことを話せるのに、と。

ン―、複雑。分かるとはっきり言えませんが、分かるような気もします。
今度私が引越す場所に過去の思い出があるおばあさん(だと失礼かな!)マダム老女が2人いて、以前親切にしてもらっていたんです。私が何にも出来なかったのと、恐らく彼女達には時間があったのでしょう、マー色々親切にしてもらいました。2人とも猫を飼っていた言わば猫おばあさんでした。会いたいなー行きたいなーとは思うのですが、本人からしたら「エー何しに来たのー?」と思われたらどうしよう、そう思うと踏み出せません。猫も、おばあさんも生きているかわからないのですけどね。

2016/10/24 (Mon) 11:24 | Tsuboi #- | URL | 編集
Re: No title

Tsuboiさん、こんにちは。今度私が引越す場所・・・え!引っ越しですか。もしやそれは私が大好きな街のこと???猫おばあさんをヒントにそんな答えを割り出してみましたが如何でしょうか。さて、其れで引っ越しをされたら是非おばあさんに会いに行ってほしいです。多分よく覚えていて喜んでくれるはずですよ。思うのですが、戦争を通過した人達は健常ですなんだかんだ言って長い樹ですし、ちょっとくらいじゃ寝込みもしません。多分ね、猫もおばあさんも元気。私はそう思います。

2016/10/25 (Tue) 23:14 | yspringmind #- | URL | 編集

こんにちは。
写真ですが、こういう見方が出来るyspringmindさんの感性は、若々しくていいですね。
少し前に隣街の彫刻を紹介する簡単なツアーに参加したところ、学芸員の方が、この彫刻家は「女の子の像でも女の子を現したかったのでなくそのシルエットを表したかったのです。」、つぎのこの作家は「自然との調和を表現したかったのです。」と、どうも見たまんまの造形をどの彫刻かも現したかったのではなかったように思いました。どうも、その奥のもの、みんながこどのもころに見えていたようなものがまだ彫刻家には見たいという探究心があって、はたまた、壮大な空気かなにかを現したいような感じを受けたところです。なので、yspringmindさんの今回の写真はなんかそんな気がしたのです。

日本人の薬剤師がいるなんて、とても興味深いですね。ルイーザさんは今も健在ですか。いい人ですね。

2016/10/26 (Wed) 02:03 | つばめ #- | URL | 編集
そうか

そういえば、前にリヨンに住んでいたとき、よく通ってたお店にも日本人がいて少し話したことがあったなぁとふといま思い出しました。もう日本に帰ってしまったのかしら?

>空が青い日は、ボローニャの赤い壁が美しく見える。

私が訪れたボローニャは冬の黄色い光だったけど、この時期の赤と青の組み合わせはきっと美しいんだろうな。
私の知らない街の色。そんな色の組み合わせは訪れた中ではみたことないのです。

2016/10/28 (Fri) 18:48 | inei-reisan #pNQOf01M | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。私は人より背丈が低いので、踵の高い靴を履くと世界が別物に見えたりするのですが、恐らくは其れと同じことなのでしょうね、低い目線から見る世界は他の人には別物に見えるのかも。絵を描くのも写真を撮るのも私にとっては共通するものがあって、それは如何に目の前にある物を上手に描写するか、ではなくて、それを見て感じたこと、考えたことを表すのが私が求めることなのです。でも、なかなかうまくいきません。100枚写真を撮って、10枚気に入ったものが残れば上出来と言った具合です。難しい。でも、だから面白いのかもしれません。奥が深くて先が見えないのも、面白いことのひとつです。
ルイーザは、確かにいい人です。典型的なボローニャ人です。初めは気難しいけれど、相手のことが分かり始めると扉をぱっと開けて、とても親しくなる。今も元気で、夫婦で花屋を営んでいますよ。

2016/10/29 (Sat) 23:47 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: そうか

inei-reisanさん、こんにちは。昔と違って今のボローニャは日本人が割かし沢山いるのです。ただ、行動範囲が違うらしく、職場以外で日本人と会うことはあまりありません。イタリア人の中に交じって生活することに慣れたからかもしれません。そういうのが平気になったと言うことなのでしょう。
今日も空が青く、ボローニャの赤い壁が美しく見えました。そういうのを見ると、ボローニャに居ることを嬉しく思うのです。雨ばかり降ってと文句を言えば、驚くほど空が高くて青くて美しい秋晴れの日もあります。どうぞそんな美しい秋の日を見に、またボローニャに来てください。

2016/10/29 (Sat) 23:56 | yspringmind #- | URL | 編集

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