それでいい

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日が暮れるのが早くなった。そんなことから8月が終わったことを感じる。9月。12カ月の中でも特に素敵な月だと思う。夏の日差しに照らされた肌のほてりが冷めないけれど、そんな肌を乾いた風が労わるかのように優しく撫でていく月だ。夏の楽しかった、忘れたくない沢山の思い出を胸に、また頑張ろうと思いながら、いつもの生活に戻る。私にとっての9月はそんな素敵な月である。
いつもの生活に戻って、早くも忙しい毎日の渦中にいる。でも、全然嫌じゃない。思うに私は8月を、自分が感じていた以上に満喫したのだろう。だから朝の早起きは眠くて仕方ないけれど、仕事は泉のように湧き出て忙しいけれど、家に帰ればあれもこれもすることがあるけれど、どれもちょっと愉快な気分でやっつけられる。こんなことは初めてで、さて、私はどうしたのだろう、と戸惑う程である。昨日の母からのメールに、あなたには良い休暇だったでしょう、と書かれていたけれど、全くその通りだと思って笑みが零れた。

土曜日なのに早く起きて出掛けたのは髪を切りたかったからだ。この土曜日は14時迄と前々から聞かされていたから、どいうしても早い時間に店に入りたいと思ったのだ。果たして店は大変な混みようだった。誰も考えることは同じらしい。夏の間に延びて収拾がつかなくなった髪を一日も早く綺麗にしたい、と。いつもは客とのお喋りを十分に楽しみながら働く店の人達も、そんな暇がないらしい。皆無言で、店は混み合っているというのに全く静かなものだった。私の番がやって来たのは2時間以上待ってからのことだった。いつも混んでいるけれど、こんなのは初めてで、しかし店の人達は休憩も食事もせずに夢中で働いているから、どんなに待たされても文句を言う人はひとりも居なかった。店には見習の青年が居た。年の頃は20代前半の、顎ひげを蓄えたいかにもイタリアの今どきの青年だった。青年が私の髪を洗うことになった。兎に角今日は人手が足りないのだ。見習いだって戦力にならねばならぬ。さて、髪を洗い始めたが上手くいかない。人の頭髪を扱いなれていないのがすぐに分かる。指先に力が入らないらしく、特に東洋人の元気な髪をうまく扱えないといった感じだった。横から色んなアドヴァイスが飛んでくる。こうするのよ、ああするのよ、と。その都度、彼は恐縮して益々困ってしまうのだった。私は心の中でいつもの人に髪を洗って貰えなかったことを残念に思ったが、ふとあることを思い出した。
昔、アメリカに暮らし始めて直ぐに得たアルバイトのこと。若い時代にアイルランドから移民してきた老人が営むリカーショップのデリで働いた時のことだ。そもそも自分が探してきたアルバイトではなく、世話好きの知り合いが勝手にまとめてきた話だった。突然、毎日数時間働くことになった私は、英語もろくに話せないから、それだけでもどきどきしていたのに、いきなりサンドウィッチを作るように言われて緊張の頂点を飛び超えてしまう程だった。アメリカ風のサンドウィッチって? 口をあんぐり開けている私に、店主がやり方を見せてくれた。こうして、こうして、紙に包んで、其の上から、包丁で二つに割るんだよ。分かったような気分になったが、しかし、いざ客が来て注文を受けると店主のようにはいかなかった。手つきが悪いから店に来た客たちは、いつも心配そうだったけれど、私の作るサンドウィッチはいつも、とてつもなく大きいから、大抵の人が大喜びだった。あの時、客のひとりでも店主に文句を言っていたら、私は挫けていただろう。それから、そんな大き過ぎるサンドウィッチに、店主は一度も文句を言わなかった。また大きくなってしまった、と困った顔を向ける私に、店主はいつもそれでいい、と言ってくれた。だから次の日もまた店に行った。こんなアルバイトは自分には向かないと思いながら、それでもしばらく続けられたのは、私を取り巻く人達からの声援にも似た優しさがあったからだ。
誰でも慣れていない時はうまくいかないものなのだ。うまくいくようになるには、時間と経験が必要なのだ。そんなことを思い出して、あ、大丈夫、上手にできているから心配しないで、と青年に声を掛けると、青年はとても安心したらしく、もどかしかった指がやっと自由に動き出した。それでいい、それでいい。昔、店主が私に言ってくれたことを思い出していたら、横にいたいつもの人が、私の代わりに言ってくれた。うん、それでいい、その調子。

蝉はもう鳴かない。昼間はこんなに暑くても。やはり夏は終わりかけているのだ、と自然がそう教えてくれた。




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コメント

こんにちは。
いい話ですね。
こういう話、だいすきです。
それでいい。雇い主が使うのに本当にいい言葉ですね。けなして成長されるより、いいんだよと言ってあげた方がどんなにいいか。
やさしい言葉が、ずっと広がっていきますように。

2016/09/04 (Sun) 00:23 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。頭から否定させたり叱られたりすると委縮してしまいますよね。新しい人には寛大に、見守ることも大切だと思います。しかし其れは案外難しいことなのです。人は皆時間が経つと、自分が初心者だった頃のことを忘れてしまい、直ぐにいらいらしたり、憤ったりするものですから。人に厳しくするのは簡単。優しくするのは本当に難しいことですね。

2016/09/05 (Mon) 23:09 | yspringmind #- | URL | 編集
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2016/09/06 (Tue) 21:06 | # | | 編集
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2016/09/06 (Tue) 22:48 | # | | 編集
Re: No title

フランスの鍵コメさん、こんにちは。引っ越しお疲れさまでした。引っ越しって、本当に大変ですよね。鍵コメさんはよく頑張っていると全く感心しています。ロワール川向かいのマルシェ! いいですねえ。どの辺りにお住まいなのかしらと想像が膨らみます。それにしてもレジに並んだ後ろの人がそんなことを言ってくれるなんて、あら、本当に優しいこと。イタリアでは、そんなことを言ってくれる人いるのかしら、と思いました。遊びに行きたいですねえ。

2016/09/08 (Thu) 19:46 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: 以前

日本の鍵コメさん、こんにちは。毎朝読んでくださって、ありがとうございます。そういうの、励みになるのですよ。
妙なタイトルかしらと思っていたところだったので、安心しました。これからもお付き合いお願いいたします。

2016/09/08 (Thu) 19:49 | yspringmind #- | URL | 編集

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