台風、浅草、煎餅。

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台風が近づいているらしい。雨は降らぬが空には鼠色の分厚い雲が敷き詰められて、もう直ぐだよ、もう直ぐ、と空がいっているようだった。それから蝉。数匹といわず、数十匹、数百匹とも思わせるような蝉の声。頭上から降り落ちてくるような蝉の声は、まるで大雨が降る前にすっかり鳴いてしまわねば、とでも言うようだった。そうしてホテルに帰ってきたところで、雨が降り始めた。予想通りの雨。そう思えば嫌いな雨も、それ程、苦には感じない。

台風が来る前に浅草を訪ねた。帰ってくるたびに浅草へ行こうと姉を誘う私は紛れも無い浅草好きである。何が好きと聞かれても困るのだけど、私が覚えている時代の色や匂いに似たものが今も残っているからかもしれない。それから美。常に変化している日本の美が、此処では多くがそのまま存在する。それが国宝級の伝統芸能などといった手の届かない形ではなく、実に普通の形で、手の届くところに存在するのが良いのかもしれない。人混みが嫌いな私だけれど浅草ならば仕方が無い、と思えるところも浅草が好きな証拠である。姉も浅草が好きなのだろうと想像する。さもなければ私が戻ってくるたびに浅草へ行きたがるのを窘めたに違いないから。
今回の浅草は散策のほかにも楽しみがあった。すき焼きである。美味しいすき焼きをどうしても頂きたくて、姉に連れられて今半へ行った。今半はこの辺りでは名の知れた店らしい。名が知られているにしては狭い質素な入り口だったが、中に足を踏み入れて直ぐに分かった。昔ながらの内装で、昔ながらのやり方で、私は直ぐに店が好きになった。右手奥には畳みの座。幾つもの小さな座卓が並べられていた。12時になったばかりと言うのに空いている座卓はひとつだけ。運よく直ぐに座卓に着くことが出来た。長年畳の生活をしていないせいで、膝を折り曲げて座ることが出来ない。そんな私に店の人が足を崩してお座りなさいよと勧めてくれた。客層を観察してみる。地元の人達、旅行者達、家族連れ、若い女の子たち、若い男女たち。こうした店に若い女の子たちが連れ立ってくることも、若い男女がデートの為に来ることも予想していなかったから、大そう新鮮な印象を得た。こうした人達がすき焼きを求めて店に来るならば大丈夫。これからも日本の美味しいものは受け継がれていくだろう。それにしたって、25年ぶりのすき焼きは、美味しくて愉しくて、兎に角美味しかった。
煎餅を売る店の前を通りながら、子供の頃を先に思い出したのは姉だった。私たちが生まれ途中まで育った街に、煎餅を焼いて売る店があった。この手の店があの時代は別に珍しくもなく、大抵こんな風にして店の奥で作ったり焼いたりして販売したものだ。和菓子屋ならば店の奥で餡を練り餅を捏ねているのが普通だった。豆腐屋は店の奥で豆腐を作っていた。だから煎餅屋は店の奥で煎餅を焼いていても決して珍しいことではなく、むしろ当然と思っていたのだ、あの時代の人達は。煎餅屋は姉のクラスの男の子の家族が営んでいた。姉はこの店が好きだったそうで、頻繁に店に足を運んだらしい。店にいた同級生の両親は、今日は息子はいないんだよ、などと言ったらしいが、ううん、お煎餅を焼くのを見に来たの、と言って驚かせたらしい。へえ、煎餅を焼くのが面白いのかい、と。姉はこうした手をかける作業が昔から好きだった。私は知っている。だから姉が店に煎餅を焼く作業を見に行ったと聞いても、少しも不思議ではなかった。その店のことを私も覚えている。店先に焼いた煎餅を入れた高さの低いガラスケースが並んでいて、此れを何枚、あれを何枚、と袋に入れてもらうのだ。奥は座敷のようになっていて、どっしりと座った大人が、一枚一枚丁寧に、煎餅を焼いていた。いい匂い。小さな子供だった私にはその様子が良く見えなくて、背伸びをしたりつま先立ちしたりして、奥の様子をのぞいたものだ。おかっぱ頭の私は、何処へ行っても小さな子ども扱いで、ほら、おまけだよ、なんて言って、煎餅を一枚手に持たされたりしたものだ。

浅草には私たちの幼い頃の思い出と合い重なるものが沢山詰まっている。それがある限り私はやはり次ぎもまた、浅草に来たくなるだろう。懐かしいからだけじゃない。何か、忘れて貰いたくない日本らしさが、新しいものと上手い具合に共存している。と思うのは私だけなのだろうか。外国人が浅草を好きになるのが、そんな理由であれば良いのに。




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コメント

こんにちは。
お姉さんと浅草にいかれた様子を楽しく読ませていただきました。よかったですね!
子供の頃の話をながれるように自然とできるのも、やはり姉と妹だからですね。一緒に暮らしていたのだから。感性もたまにそこに戻るのでしょうかね。
おせんべい、とってもおいしそう。亀せんべいの割れ目に入った醤油味がいいでしょうね。
すき焼き、そんなに美味しいすき焼き、想像できません。いいなあ。
本当によかったですね。
こちらは、今日気持ちばかり涼しくなりました。月がきれいですよ。今年の夏は土星とさそり座のアンタレスの間を火星が通過するそうです。

2016/08/16 (Tue) 15:08 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。姉と私は4つちょっと違いで、昔は金魚の分みたいにくっついて歩いている妹の私を鬱陶しく思っていたはずなのですが、今は一緒にいるのが愉しく思うようになったようで、全く嬉しい限りです。姉が私の帰省を楽しみにしていてくれたと聞いて、私は本当に嬉しかったです。
一緒にいると色んな話をします。長い年月離れて暮らしている大きな穴を埋めるかのように、です。
この写真のような煎餅が入ったガラスケースを見ると、一気に子供の頃に戻ってしまいます。
台風一過。酷い蒸し暑さです。

2016/08/17 (Wed) 15:26 | yspringmind #- | URL | 編集

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