自由奔放

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木曜日だけれども家に居る。今日は祝日なのである。週の真ん中に位置した祝日は、神様からの贈り物。週末とは違う、何かほっと一息つける感じで大好きだ。朝のうちにテラスに並べた鉢植えに水をくべた。美しい色の新しい葉をつけた金木犀。ゼラニウムの鉢はふたつある。目が覚めるような鮮やかなピンク、それからはっとするような赤。どちらとも長い付き合いで、20年近くの歳月を共にしている。毎年美しい花を咲かせる彼女たちが大好きだ。何処までも蔓をのばして自由奔放なジャスミン。彼女を眺めていると、昔の自分を思い出す。現在の自分が自由ではないなどと言ったら罰が当たりそうだけど、昔に比べれば確実に自由の数は少ないだろう。それが年をとると言うことであり、責任を持つことであるならば、それでも手元に自由が残されていることに、私は感謝せねばならないだろう。

ふと、ある日のことを思い出した。アメリカで仕事に就いて少し経った頃のこと。私は友人と歩いて探した感じの良いアパートメントで共同生活をしていて、やっと様々なことが軌道に乗り始めたのが6月だった。アパートメントから坂道を下ったところに、北へ歩けば湾へと続き、南へと歩けば街をふたつに分けるような大通りが存在する、細く長く続く通りがあった。自由奔放な印象で、ちょっと気になる感じの店が連なっていて、俗にゲイの多い通りと呼ばれていた。でも、街の人達はそんなことを気にすることなどなかったようだ。自由な風が吹く街なのである。私はと言えば、そういうことが少しも気にならなかったし、寧ろそうした人達には類稀な才能や感覚が備わっていて、彼らから感じ得ることが沢山あると思っていた。インド料理屋、CDやカードが豊富な店、本屋、風変わりな衣服の店、セカンドハンドの店。仕事に就くチャンスをくれた知人とカフェで話をしたのは数か月前だった。この通りにある、角から直ぐ左手の、狭くて雑然とした店だ。あの頃は携帯電話などなかったから、店の入り口脇には黒い公衆電話機が備え付けられていて、いつも25セント硬貨を握った誰かで塞がっていたのを覚えている。6月のある週末、この通りを歩いていたら後ろから肩を叩かれた。えっ、と振り向いてみたら、例の知人が立っていた。彼がどの辺りに住んでいるのかは遂に知ることが無かったが、この辺りによく来るらしかった。この辺りの何でもありの感覚が好きなようだった。その点では彼と私は大いに気が合ったと言えよう。私はジム帰りのラフすぎる装いで、彼はだらりとしたシャツをさりげなく着こなして、他人目にもちょっと粋な感じがした。彼と私は特に仲が良いと言う訳ではない。何処かで会う約束をしたのは、後にも先にも、私に仕事先を紹介してくれた、あの日だけだ。大抵、何処かへ行くと彼が居て、私が居た。偶然会うことがあまりにも多かったから、約束をする必要もなかった。さて、彼がこの通りに来た理由はすぐに分かった。通りの一部を通行止めにしてストリートフェアなるものをしていたからだ。道の真ん中に座り込んでいる人達が沢山居るのは、もうじき誰かの演奏が始まるからだった。急いでいないなら一緒に演奏を聞かないかと誘われて、路上に腰を下ろした。互いに恋心を抱いていないから、実に話がしやすくて、演奏を聞きながらいったいどれ程話しただろう。向こうに見える男性が、ブルース・スプリングスティーンによく似ている、彼に違いない、いや、こんなところに居る筈が無い、と興奮したこと。近くのグロサリーストアで買ってきた冷たい飲み物が美味しかったこと。そのうち大粒の雨が降って来て、またね、と手を振りながら駆け足で別々の方向に走ったのは、やはり私達が恋人でも何でもなかった証拠だ。6月が彼の存在と強くつながっているのは、実に面白いと思いながらも、私が何時までも忘れたくないあの街での生活のところどころに、確かに彼が存在していたことを思い出して、私は少し驚いているのだ。いくら考えても名前を思い出すことが出来ないくらい、薄い知人関係だったと言うのに。

今日の空は気まぐれ。晴れているかと思えば急に黒い雲が空を覆い、勢いよく雨が降る。そして気が付けば雨は止んでいて、空が次第に明るくなる。昼から二度雨が降った。相棒は祝日だと言うのに朝早く家を出た。家から500mほど先の橋の向こうに暮らす彼の友人から、家の庭の手入れを頼まれたらしい。相棒は植木屋さんではないけれど、植物をいじるのが好きで、それから植物と通じ合うものがあるらしく、彼が手を加えた植物は本当に生き生きと成長して、美しい花をもたらす。こんな風に友人に頼まれるようになって、もう8年ほどになる。祝日だからゆっくりすればいいのに、いつもと同じ時間に起床して出掛けて行くのだから、こんな頼みは相棒にとって、案外嬉しいものなのかもしれない。しかし昼過ぎに随分な雨が降ったので、作業は中断したのだろうと思っていたが、僅か500mほど先の橋の向こうでは雨が降らなかったと、15時過ぎに汗だくになって帰って来た相棒から聞いて驚いた。自然とは不思議である。自然からすれば、我々人間も、不思議な存在なのかもしれない。




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コメント

こんにちは。
ゼラニウムきれいですよね。
いい思い出ですね。いい人に出会いますね。たくさん人がいるなかで、この人の考えをとくに知りたいとひかれる人に出会えるのは、ちょっとした輝いた水晶でも見つけたような感じですかね。
それが、過去をふりかえったときに、そういえばそういう人に出会ったなと私も思い出しました。そのときはなんとも思ってなくても、あの人とはすごい縁があったのかなと。yspringmindさんの話を聞いて、やさしくなれます。
あと、植物を彼女たちと言われるのもとってもとってもいい表現ですね。そういうふうに、子供の心というか、植物や人にたいしてもフラットにとらえられる自分でありたい。なかなか感情が先走ると人にたいしてはできませんが。
世界を見てこられているyspringmindさんは、世界は広いと思いますか、せまいとおもいますか。わたしは、生活地域においてせまいなとおもいます。そして、いつかここから出たい出たいと20才の青年が思うようなことをずっと思ってきました。そして、いま、少しおちついたところで、ほんとはいやなのにと自分をふるいたたせています。それが、せめてもの自分の気持ちを正直に戻させる抵抗だとおもって。
今日はとってもいい天気です。
yspringmindさんの相棒さんは植物を丁寧に寄り添われるような、なめらかな方なんですね。

2016/06/03 (Fri) 01:37 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。ゼラニウムは本当に手間いらずで、しかも美しいときているから、イタリアでは大変愛されています。それにひと言でゼラニウムと言っても、色んな種類があるんですねー。近所にゼラニウム見本市みたいなテラスがあって、何時も惚れ惚れと眺めています。あれはかなり手入れをしているのでしょう。うちの様に自力で育ってほしい、みたいなゼラニウムとは違います。
人との出会いは単なる偶然と思うのですが、でも、縁とか運命ってあると思います。時には人間関係に疲れることもあるものです。でも、人に出会うと言うのは全般的に素晴らしいことだと思っています。
私は、昔は世界はぜ枚と思っていたのですが、知れば知る歩と世界はやはり広くて未知なるものが潜んでいると思うのです。少しづつ、それを知っていくのは良いことだと思うのですよ。
自分を押さえるのは苦しいですね。自分を解放してあげると楽になります。

2016/06/04 (Sat) 12:48 | yspringmind #- | URL | 編集

そうか、そうですね。

2016/06/04 (Sat) 14:15 | つばめ #- | URL | 編集

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