パン屋のこと

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行きつけのパン屋を替えた。13番のバスが通る道に面して在る小さなパン屋へは、もう何か月もご無沙汰だ。というのも、旧市街の食料品市場界隈に好みのパンを売る店を見つけたからだ。見つけたと言っても、私は其の店をずっと前から知っていた。時々パスタを購入していたからだ。でも、この店のパンはあまり好きじゃない、とずっと思いこんでいた。時々、他の店に足を延ばす時間が無くて、仕方がなく購入する程度だった。ところがある日の仕事帰り、閉店前に店に駆け込むと、いつもは無いパンがあった。KAMUTという名の、古代小麦を使ったパンだった。柔らかくて弾力があって、とても美味しそうに見えた。KAMUTというものを昨年の夏に初めて知ってから興味を持っていたので試しに購入してみたところ、なんとまあ、美味しいこと。それ以来、私はこの店のこのパンを求めて足繁く通うようになったのである。二度に一度は売り切れで、手ぶらで帰らねばならなかったけど。店はどこかのパン工房からパンを仕入れているらしい。仕入れる数量は限られているので、夕方にしか買い物が出来ない私は運が良い日にだけこのパンを手に入れることが出来ると言う訳だ。だからこれが手に入った日は運が良い。KAMUTのパンを抱えていると一日の疲れも忘れてしまう程、楽しい気分になった。先日は閉店の1時間前に店に入った。KAMUTのパンは半分しか残っていなかったけれど、私はそれを喜んで購入した。そして他に客が居ないこと、そして、それでなくても強面の顔の店主はいつも気難しい表情をしているのに、その日に限って何かいいことがあったのか、とても機嫌がよかったから、今までずっと訊きたかったことを言葉にしてみることにした。

何年も前まで、二本の塔の前から真っ直ぐ延びる大通りから一本入った通りの角に八百屋があった。パキスタン人が店主なのか、それとも単に雇われているだけなのか、兎に角、冬になると日本で見るような美味しそうな白蕪を束ねたものを店先に並べて、私を喜ばせたものだ。それを茹でたり煮たりすると、トロリと甘くて夢のように美味しかった。その角の八百屋の右手には、つまり角から二軒目は間口が酷く狭い古びたパン屋があった。こんな狭い店、と思ったが意外なほど奥行きがあって決して狭い店ではなかったけれど、何しろ間口が狭いのでうっかりすると見過ごしてしまうような存在だった、少なくとも当時の私には。それでいて店には常連客が居るらしく、いつ見ても店は客で賑わっていた。美味しいパンを売っている店なのだろうか。そんなことを思ったことが幾度かあった。其の右隣には廃業した映画館があって、誰かが其れを買い取るでもなく放置されていたから、埃っぽくて薄汚くて、どうにかならないのかしら、と誰もが一瞬眉をしかめた。そんなこともあって、この一画は錆びれた横丁、といった印象があった。ぱっとしない、活気のない。其の映画館がそのうち買い取られて、大きな本屋になった。地上階、一階、二階と、どの階にも軽い食事がとれるようになっていて、そんな本屋がボローニャに出現したことを私は快く思った。そして、その前後に八百屋もパン屋も姿を消した。建物が一新されると八百屋だったところはジェラートの店になり、パン屋だったところは長いこと締め切ったままだったが、数年前にワインと軽食を楽しませる店になった。この一角がめきめきと新しく洒落た雰囲気になったことに誰もが好感を持ち、その昔在った風景を思い出す人は少なかった。私がKAMUTのパンを求めて通う店が、あの間口の狭いパン屋だったことを教えてくれたのは、その近くに店を構えるフランス屋の店主だった。それを聞いた時、忘れていたあの風景が脳裏に浮かび、いつかパン屋の店主に訊きたいと思ったのだ。どうして店の場所を変えたのか。あの場所に愛着は無かったのか。そうしてようやく店主にそれを訊くと、奥さん、あんたは私の店があそこにあったことをよく知っていますね、と喜んだ。角には八百屋、その反対には潰れた小さな映画館があったあの店は私の祖父の代から続けてきた店だったから、ずっと居られれば良かったけれど、あの建物が丸ごと売りに出されてしまって立ち退かねばならなかったのさ。パン屋の店主はそう言って、奥さん、覚えていてくれて有難う、もうあの店を覚えている人は本当に少しになってしまったのに、と私の手を握って礼を言った。もう70年も続いている店。場所は変わってしまったけれど、おじいさんの代から続けてきたこの店が、また次の世代に継がれていけばよいと思う。

あの日から店主はとても感じが良い。忙しい店主は次の客に対応しながら私にパンの代金をカウンターに置いといてくれと言う。それでつり銭が無いように置くと、確認もせずにレジに突っ込む。奥さんのことは信用しているから、とのことだ。あんな昔話で、大した信用のされようだ。強面で厳めしい表情の店主は、典型的な古いボローニャ人。もう何年も前に空の星粒になった舅と同じタイプだ。ボローニャの壁のように堅くて頑固でとっつき難いが、一旦心を開くと驚くほど優しい。


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コメント

こんにちは。
yspringmindさん。
イタリアのパンはしごく素朴で質素な感じがします。
それを良しとする国民性を尊敬します。
ぶれない何かはどこから生まれるのかな。
歴史を通り越してた国民性でしょうか。
個人的にはほんずいを知った人たちだなと思うのです。
日本は人工知能を生もうとしています。20年後にはいま、人がしている仕事の半分はロボットがしているだろうと言われている国です。イタリアの人々はどのように感じているかyspringmindさんのおかげで私は感じとることができるのです。本物を知っている国民性であると思います。
日本は大好きです。イタリアににていると思います。ただ、農業に重きをおいているイタリアと、ロボットなど未来思考の日本と思考の違いを感じるとき、イタリアのふところの深さ?古さとゆっくりとしたペースを羨ましく思います。それを国民的にイタリアの人びとはながーい歴史のなかで知っているのでしょう。
ほんとうに、神様がいるのならyspringのさんと話がしたい。わたしは、ただのパートだけれど。わたしも、yspringmindさんも、芸術家としての志を少しでも持ったことがあるもの同士。
目に見えないもの、感じるもの、人一倍あるはず。その嬉しさと同時に悲しさもあります。感じる感性は止まりません。しょうがないですよね。性ですもの。わたしは、イタリアに住んだことないので、きっと芸術も大切にする国だからそういう懐は深い国だろうなあと感じります。最近感じるのは、芸術こそ人間の喜びというこそ。お金にはならないけれど。芸術が美しさだと。人が求めているのはこういうことだとわかりました。お金とは世を渡っていく銭ではあるけれど、なんなんでしょうね。イタリアの人はどのようにとらえていますか。
今年、yspringmindさんにあえたらいいなーと思うつばめでした。というか、そぼくにながーい歴史の上でたんたんと過ごしているイタリアの人々に敬意を持ちます。なんとかしなきゃでなく、日々の暮らしを大切にする生き方に敬意を示します。

2016/01/31 (Sun) 08:42 | つばめ #- | URL | 編集
文化です。

yspringmindさんへ。
おはようございます。お元気ですか?
一瞬で見抜くんでしょうね……昔に店を知っていたのはキッカケで。
信頼されるって、これ以上嬉しいことはありませんね。
昔「家庭画報」で見た染付けが欲しくて大阪の骨董屋に電話したら、
お金は後でいいからと、先に商品を送ってくれたことがありました。
何なんでしょうね、その辺の「信頼に足る」と思ってくれるポイント。
美味しいパン屋は羨ましいです。今、近所にどうにか一軒ありますが、
昔、住んだ街に、ある日こつ然と上手いパン屋が出現(笑)
あれよあれよと言う間に人気店に。惣菜をはじめ、近くにカフェをオープン。
2年くらいしたら代官山に引っ越しちゃいました(苦笑)
お洒落な人が集まるようになり、チョッとした文化を形成。
パン屋は文化ですね(笑)その潰れた映画館が気になります……。
イタリアの映画館事情ってどうなんでしょう?

ブノワ。

2016/01/31 (Sun) 23:04 | ブノワ。 #kZkdgmoI | URL | 編集
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2016/01/31 (Sun) 23:26 | # | | 編集

この写真に写っているのは 石の柱ですか?面白い彫り方ですね。最初は分厚い彫刻の施された木の扉が開け放されているのが見えているのかと思いました。素晴らしい。石の文化。何百年もそこにあるもの。パン屋もそういう時を生きているのでしょうね。そのパン屋のおやじさんの《ふところ》に入る人になったのですね。CAMUTのパン 美味しいですよね。かみ締めて 味わって 食べるパン。

2016/02/01 (Mon) 09:16 | kimilon #aKMr6UbQ | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。イタリアのパンは素朴と言うと聞こえが良いけれど、時には味気なく感じるものです。それも店によって違いますが、私はイタリアに来て何が一番がっかりだったって、美味しいパンになかなか巡り合えないと言うことでした。アメリカでは、近所に気に入りのパン屋があって、いつも新鮮なパンを手に入れることが出来たし。勿論、年々イタリアのパンのうまさが分かり始めましたけど、しかし、此れだ、というのに出会うことは滅多にありません。それでその、此れだ、と思ったのが、このパン屋のKAMUT粉を使ったパンでした。20年かかりましたけどね、好きなパンに出会うまでに。
つばめさんの話を読みながら、私はふと思ったのですよ。それはお金で何でも買える時代になったけど、お金で買えないものもまだ存在すること。例えば、芸術。芸術を堪能する心や時間。それから信頼や友情。家族の絆。夢。希望。そう言った手に取ることが出来ない、形があるようでないものたちです。イタリアも日々変化しつつありますが、この国にはまだそうした物が残っているように思えます。日本にもあった筈で、多分まだある筈なのですけど。これを大切にしないと、これらを忘れてしまうと、間違った方向に行ってしまうと思います。と、今日は何だか偉そうなことを書きました。
私もつばめさんに会いたいです。今年の目標のひとつにしましょうよ。

2016/02/02 (Tue) 23:32 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: 文化です。

ブノワさん、こんにちは。
信頼されると言うのは何と嬉しいことなのでしょうか。褒められるよりも嬉しいことと私は思っています。信頼というのは、とても地味で、一見あるのかないのか分からないような存在ですが、私にはダイヤモンドよりも尊いです。家庭画報で見た染付けが欲しくて・・・というところがとてもブノワさんらしいと思いました。それにしても大した信用のされようで。こういうのは驚きで、飛び切り嬉しいですね。
ところでパン屋の隣にあった、潰れた映画館、気になるでしょう?私がボローニャに来た1995年には、既に潰れていました。本屋になってまだ10年も経っていません。長いこと放置されていていました。ボローニャ旧市街には幾つもの映画館が存在しましたが、そのうちのいくつかは閉鎖されました。時代の流れなのかもしれないけれど残念なことです。そして映画館は、旧市街の外の、歩いていくには不便、しかし車で行くと便利な場所に大きくて綺麗なのが幾つも出来ました。映画離れは在りませんが、映画は車で見に行くもの、になってしまいました。

2016/02/02 (Tue) 23:48 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

鍵コメさん、お帰りなさい。突然のこととはいえ、間に合って良かったです。家族と離れて外国に暮らす者に付きまとう心配は、まさにこれなのですよ。私にもいつかそんな日が来るのかと思うと、とても微妙な心境です。大変忙しい滞在だったようですが、お母様は感謝していると思いますよ。どうぞゆっくりされますように。ご自分のことも大切にしてください。
ところで浦島太郎の話ですが、私も10年帰国し中た時は、何が何だかわからなくて電車の切符ひとつひとりで買えない、何だか情けない思いをしました。デパートのエレベーターの前で美しい女性がお辞儀をして迎えてれくれたり、洗濯機がおしゃべりしたり。カフェのウェイターが注文を取るのに床に膝をついたり。書きはじめたら止まらないくらい色んなことを感じました。
人生は色んなことがありますね。悲しいこともあるけれど、明日になればまた新しい一日が始まるのです。其れで良いのだと思います。

2016/02/03 (Wed) 00:00 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

kimilonさん、こんにちは。これは石の柱です。四面に彫刻が施されていてなかなか美しくて私の気に入りです。ボローニャの建物はこうしたものが多くて、それを探しながら歩くのはなかなか面白いものです。時には歴史的建物で、しかし現在は個人の所有物になっている建物もありますが、関心を持ってみていると、時には持ち主が中を見せてくれるなんてこともあります。1400年代とか、1600年代とか、とんでもなく昔の建物がちゃんと残っているところが素晴らしいですね。文化。それはまさに文化と言うべきでしょう。

2016/02/03 (Wed) 00:06 | yspringmind #- | URL | 編集

うわあ すごい 4面この彫刻がほどこされているのですか。みごとなんでしょうねえ。ああ みてみたいなあ。

2016/02/03 (Wed) 13:30 | kimilon #aKMr6UbQ | URL | 編集
Re: タイトルなし

kimilonさん、見ていただきたいですね、本物を。彫り物は少しづつ異なっていてるのですよ。この柱の柱を眺めながらカッフェを楽しむのはなかなか楽しいものです。

2016/02/04 (Thu) 00:00 | yspringmind #- | URL | 編集

目標のひとつ。うれしいですね。

2016/02/04 (Thu) 07:40 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、私と会って話をしたいと思ってくれることが、私を喜ばせているか、知らないでしょう。

2016/02/06 (Sat) 00:41 | yspringmind #- | URL | 編集

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