嬉しい週末

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私は嬉しい。週末になったことが嬉しくてたまらない。16日間の夏休みを終えていつもの忙しい生活に戻ってみたが、思いのほか忙しくて目が回るようだった。忙しい。いや、そうではない。ゆっくりペースの毎日にすっかり慣れてしまっていたから、決まった時間に起床して、身支度をして、決まった時間に家を出る、と言った小さな、ほんの小さな規則みたいなものを守ることが苦痛だったのだ。8時間パソコンの前に座って小さな文字や数字を追うことにしても。夕方、何時まで経っても来ないバスを待つこと。やっと来たかと思えば酷い混みようで、様々な匂いに耐え切れなくて途中で下車してしまうこと。それに、去ったかと思われた暑さが舞い戻って来たこと。小さな様々が私を困らせた一週間だった。少しづつ、いつもの生活に慣れるしかない。そう思いながら、土曜日の午後に、窓から流れ込む風に吹かれる。これを幸せと思わなかったら何と言おう。

あの夏の終わり。私は3人暮らしだった。それはサンフランシスコの、カリフォルニア1のバスが目の前を通る道に面したアパートメントで、それは友達とふたりで歩いて歩いて探しだしたアパートメントだった。陽当りの良い広いアパートメントで、彼女と私、そしてもうひとりがいた。もうひとりは私と彼女の共通の友達経由で来た人物で、私達よりずっと若い、背ばかりが高くて何もできない、と言った印象のハンガリー男性だった。祖母に育てられたという彼は、何から何まで祖母任せで甘やかされていたらしかった。実際、彼が自分で何かをすることはあまりなく、コーヒーを入れていると、僕も飲みたい、と注文するような人だった。掃除もしない。何もしない。私と彼女のどちらが先に堪忍袋が切れたのか覚えていないけれど、あなた、私はお母さんでもお嫁さんでもないのよ、と怒ったことだけは覚えている。何か月か経って、夏が来て、彼女が夏の休暇で帰省すると、私と彼のふたりぼっちになった。かと言って生活はすれ違いで、私は昼間は仕事で留守で、夜は彼が始めたばかりの仕事で留守だったから、挨拶が出来れば上等くらいの接点だった。
ある日私は知人から大きな照明器具を貰って帰って来た。それはスイッチを入れるとライトが点いて扇が回って涼しい、と言った類のものだった。貰ったはいいが、どうしたものか。アメリカに来てからというもの、私は自分で何でもするようになっていた。例えば家具を家に持ち込むにしても、大きな家具の配置を変えるにしても、照明の電球を替えるにしても、それから壁を塗ったり、ハードウッドの床にワックスを塗るにしても。この大きな照明器具を頭上に持ち上げるエネルギーはあったけれど、しかし机の上に椅子を乗せて、其の上に立っても天井に手が届かなかった。こればかりはどうしようもない。誰かに物事を頼むのが嫌いだった私だったが、観念して今まさに出掛けようとしている彼に声を掛けた。仕事に出掛けるところで悪いんだけど、時間が有る時にでも照明器具を設置するのを手伝って貰えないだろうか。天井に手が届かなくて。すると彼は人差し指を立てて、君が頼みごとをするなんて、こんな珍しいことは無い、と嬉しそうに言って、テーブルの上にのぼった。今日は休みなんだ。時間はあるんだよ。そして照明器具をちょいちょいと設置してくれた。有難うと言う私に、彼は言うのだ。君は人にお願いをするのが嫌いなようだけど、人にお願いするのは決して悪いことではないよ。時には人に頼ってみたらどうだろう。年下の、この頼りない彼に、まさかこんなことを言われようとは夢にも思っていなかったから、私は開いた口が塞がらなかった。でも、その通りだと思った。さて、それでは買い物に行くかという彼と一緒に外に出た。彼の行き先とは違ったが、初めて彼と少し歩きながら話してみようかと思ったからだった。坂道を歩きながら、彼は今はこんなことをしているけれど、いつかはこんな仕事に就きたいと願っているんだ、と一方的に話すかと思えば、急に私に質問ばかりした。そしてインドレストランのある角で、突然彼が言った。君が付き合っていたあの彼は、よい人ではないと思う。恋人を大切にしない人は最低さ。だから、さっさと綺麗に忘れてしまうのがいいんだよ。私は彼がそんなことを知っていたことに驚いていた。私が気が付かないところで、ちゃんと最近終わった私の恋の顛末を見ていたのかと。そして、恋人を大切に出来ない人は最低、だから、さっさと綺麗に忘れてしまうのが良い、だなんて。どうしようもない男の子だと思っていたのに。此れではまるで人生経験の長い大人のようではないか。目を丸くして見返す私に、彼は少し照れた顔をすると、じゃあ、と言って買い物に行ってしまった。第一印象は時として間違うことがある。いつだか誰かが言っていた言葉を思い出して、その通りだと思った。彼とはそれっきりだった。少しすると彼は部屋を出たからだ。別の町でもっと良い仕事を得たからだ。ほんの数か月の仲間だった彼。始まりは最悪だったけれど、出会えてよかった人のひとりだ。

今日はあれもこれもしたいと思うが、思い切ってしないことにした。一日を詰め込んでしまうのは簡単だけど、時には空っぽの方が良い。唯一、予定通りなのは、今夜の満月の夕食。相棒とふたりだけの、決してご馳走ではない、美味しいものを少しづつの夕食。満月の晩は月を眺めながら夕食をする。そんな小さなきまりがひとつくらいあっても良い。


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コメント

こんにちは。
一時期ロンドンに住んでいたときに、それまであまり話をしたことがなかった同僚に突然同じようなことを言われたことがあります。
人って良く見てるものだなあと思いました。

残念ながら、私の場合は頼みたいけれどもなんて言ったらいいのかわからないとかタイミングが掴めないというトホホな理由でしたが。

2015/08/31 (Mon) 04:41 | micio #O/XG6wUc | URL | 編集
Re: タイトルなし

micioさん、こんにちは。あら、同じようなことを言われたことがありますか。しかしmicioさんは頼みたいけれどもなんて言ったらいいのかわからないとかタイミングが掴めないという理由だったそうですけれど。私は昔から人に頼むのが嫌いで、何でも自分でしてしまいたかったのですが、こんなことを言われてから、少しづつ変わって行ったような気がします。今でも自分のことは何でも自分でしたい、それには変わりはないですが、もう少し柔軟になったかもしれません。

2015/08/31 (Mon) 21:11 | yspringmind #- | URL | 編集

こんにちは、yspringmindさん。
休み明けに慣れるのは、もどかしい。ほんとの自分とさよなら。

わたしも、昔、パソコンの前に8時間すわる仕事をしていたことがあります。目薬かかせませんでした。

普通の日常のいい写真ですね。
外で食べるところが多いですね。

満月の晩の食事、月を見ながら。
すばらしい、すてき、そんな風に心の余裕があるのがいい。

2015/09/04 (Fri) 15:23 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。16日ぶりに連日8時間パソコンを使うのはとてもしんどいです。でも周囲の人達は案外平気なようで、凄い葉ねー、素晴らしいはねー、と感嘆せずにはいられません。私だけなんですよ、疲れただの辛いだのと文句を言っているのは。どうしてなんでしょう。
満月は美しく、翌日その翌日も少し欠けているとはいえ、美しい光を放っていました。月を見ながらの夕食。とても贅沢。此れは感謝すべきことのひとつです。

2015/09/05 (Sat) 18:51 | yspringmind #- | URL | 編集

他の人はあまり考えてないのだと思います。
生活のためということ事態も考えてない。
でも、人それぞれですから、それが出るか出ないかの差もあるし。
yspringmindさんが言うように、他の人がしんどいとか考えてないのは何でか聞いてみたいですね!
特にヨーロッパの人の感覚は、さらにシンプルかも。単純かも。
日本人みたいに細やかで繊細な神経の持ち主には感じ取れない、ドーンとした何かのかな。
感性のちがい。比べても仕方ないですけど。
とにかく生きていかなきゃみたいなバイタリティーの根本的ちがいみたいなもの。
まったく違いすぎれば、共感できないさみしさも感じつつ、はー、そんなものかなと思ったりながら。
でも、イタリア人も日本の人が思いがちな、のんびりだらだら過ごしてるとのは違って、働くときには切り替えてパリッとはたらくのですよね。そうなんですね。
休むときはとことんやすんで。
そういうのもいいなー。

2015/09/06 (Sun) 04:28 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。私はこのところ体力が低下していまして、イタリア人のあのパワフルなところが非常にうらやましいのです。私も元気になりたいな、と。別に病気ではないのですよ。ただ、力が出ない。だから休み明けは本当に疲れるのです。
感覚のところから言えば、私はイタリア人以上に単純でシンプルです。日本人の以心伝心なんてものは私にはないので、言葉ではっきり言わなければ分からないよ、と言った具合なのです。日本人は繊細ですよね。これは本当に傍から見ていて驚くほどです。もっと強くなってもいいかなと思いますが、それも日本人の美徳なのかもしれませんね。
あ、バイタリティー。そうですよ、その言葉がぴたりときます。私にはそれが不足していると感じているところです。

2015/09/06 (Sun) 20:31 | yspringmind #- | URL | 編集

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