熱風

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数日前の夕方、旧市街に立ち寄った。ちょっとシャンパンでも、と思って。色々なことがあって疲れていた。しかしどれもがうまく納まって、それにもう直ぐ2週間の夏の休暇だから、ちょっと楽しいことをしたくなってフランス屋でグラスに一杯、シャンパンでも頂こうかと思ったのである。悪い案ではなかった。それにフランス屋も、確か10日くらいから休みに入ると言っていたから、その前に一度と思っていたのである。ところが店は閉まっていた。下ろされたシャッターに紙切れが貼ってあった。僕たちはフランスに居ます、店は28日まで閉めます、と。夏期休暇の知らせと言うよりは、書置きみたいな文面で、閉まっていて全くがっかりだったのに、ははは、と笑わずにはいられなかった。この夏の暑さと熱風に辟易して、予定を早めたのだろう。前回此処に来た時に、店主がうんざりしていたから。フランスはどうなのだろう。フランスは、此処ボローニャより北に位置するから、少しは過ごし易いのだろうか。
アマルフィ海岸へ、シチリアの海へ、と周囲の人々が散っていく中、私はボローニャに残ることになった。と言っても仕事は休みで、私も今日から16日間の夏休み。日本への帰省を中止したから、そして他にも予定がないから、何となく16日間を過ごすことになる。少し前までそれが酷くつまらなく思えて仕方がなかったのだが、こうして夏休みを迎えてみたら、それも案外いいかもしれないと思えてきた。何となく過ごすなど、日頃にはできない事だし、何時もするべき事と自分がしたい事で一日が、そして一週間がパンパンに膨れ上がっているから、時にはこんな毎日があると肩の力が抜けて良いかもしれない。腕時計を外して、目覚まし時計を止めて、ぎちぎちに詰まっている頭の中にそよ風を吹き込んでみようか。

アメリカ暮らしで一番好きだった、あのフラット。私と相棒は上の階の西側に、テスとその家族は下の階の東側に住んでいた。テスは4種の血が混じった不思議な印象の年上の女性で、3人の子供がいた。どんな経緯なのか知らないけれど、はじめの夫との生活が終わった後に新聞記者のアメリカ人、ジョーと結婚してこのフラットに暮らしていた。風変わりな家族だったがとても楽しそうで、特にテスの人柄の良さはこの辺りでも有名だった。そんな母親に育てられたふたりの息子は大変しつけの良い優しい男性に育ち、下の娘はにこやかだった。ある秋、相棒が病の妹を見舞うためにボローニャに戻っていた。私はひと月ほど独りぼっちだった。私は仕事があったから毎日が淡々と過ぎていって、寂しいと思うことはあまりなかった。友人知人と食事をしたり、映画を見に行ったり、何だかんだしていたら、あっと言う間に一週間、二週間と過ぎていった。それに私はひとりでいるのも案外好きで、夫婦とは言え、ひとりの時間も大切にしていたのだ。と、呼び鈴が鳴った。階段を下りて行って扉を開けるとテスだった。あなた、最近ひとりでしょう。そう訊ねるテスに、そうだ、相棒はひと月ほどイタリアの家族を訪ねていると答えると、夕食を一緒に食べないかという。うーん、どうしようかなあ、実は夕食の準備を始めたんだけど、などと言う私に、たまには予定外のこともいいわよ、との彼女の言葉に何かを感じて、ガスの火を止めて、家の鍵だけポケットに突っ込んで彼女の家に行った。家にはテスと上の息子しかいなかった。息子は私より少し年下で、時々仕事帰りにトラムで一緒になった。テスは奥のキッチンからよく熟れたマンゴーを使った豚肉料理を運んできて、さあ、召し上がれ、と言った。それは大変美味しくて、こんな料理は見たこともない、こんな美味しいのを食べたことが無いと喜ぶ私に、テスは笑いながら言うのだ。そうよ、だから言ったでしょう。たまには予定外もいいのよ。予定や計画もいいけれど、もっと頭も心も柔軟にしたら、あなたの周りに無数の素晴らしいものがあることに気が付くわ。勿論いいことばかりじゃない。でも、そうして分かることも沢山あるのよ。
テスと家族はその半年後、同じ街の、しかしもう少し海に違い静かな界隈に大きな一軒家を購入して引っ越していった。少し風変りな、自由なスタイルの家で、それが実に彼女達らしくて、私達の笑みを誘った。
テスが教えてくれたこと。あの言葉はあれから私の体に肌に心に沁み込んだようだ。頭も心も柔軟にしてみたら、と。

夕方の熱風が私の彼女へのセンチメンタルな気分を撫でていく。撫でるのは其ればかりでない。私の肌や猫の背中も。私も猫もこの暑さで日に日に無口になっていく。


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コメント

「たまには予定外もいいのよ。予定や計画もいいけれど、もっと頭も心も柔軟にしたら、あなたの周りに無数の素晴らしいものがあることに気が付くわ。勿論いいことばかりじゃない。でも、そうして分かることも沢山あるのよ。」
なんて 美しい言葉でしょう。ああ 私はもうヴァカンスに入っているというのに、なにやら 今日やらなくてはいけない事 や いま 行かなくてはいけない所 なんてのを勝手に作っていらいらしていました。 もっと 大きなゆったりとした気持ちで 生きたほうが良いですね。

2015/08/08 (Sat) 17:58 | kimilon #aKMr6UbQ | URL | 編集
Re: タイトルなし

kimilonさん、こんにちは。こういうことをさりげなく教えてくれた彼女が素晴らしいですね。どんなことでも教えてくれる人は親切ですが、私の周囲にはそういう人が多いように思います。大変な幸運、と言うべきでしょう。
家に居てもしたい事とすべきことが山ほどあります。でも折角の夏休みなので計画を立て過ぎずにのんびりペースですることにしました。たまにはそんな風に生活するのはいいですね。

2015/08/09 (Sun) 22:05 | yspringmind #- | URL | 編集

こんにちは、yspringmindさん。
こちらは、砂漠のような暑さです。

夏休みが長くていいですね。
みんな、しっかりゆっくりくつろいで自分を取り戻すのですね。
日焼けして楽しげに帰ってくるのでしょうね。
テスさん、気さくに声をかけてくれるなんていいですね。
ほんとに思うのですが、オープンマインドの人が多いですよね。
いいなー。
暑くてクーラーがかかせません。

2015/08/10 (Mon) 06:14 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。日本は砂漠のような暑さですか。そう言えば、姉からこの夏は日本に帰ってこなくて正解だったね、とのメッセージを貰いました。そうですか、そんなに暑いですか。
夏休みが長いのがイタリアの良いところです。でも、話しによるとフランスやドイツはもっと長いようですよ。

2015/08/10 (Mon) 18:19 | yspringmind #- | URL | 編集

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