遠い夏

DSC_0087 small


8月。何かとても感慨深い。過ぎた月のカレンダーのページを切り取ると、全てが新しくなったような気がする。それにしても8月にしては清々しい朝。一昨日の一瞬の雨を境に、ボローニャ中が涼しくなった。半袖で丁度よい気温。しかし一瞬風が吹くと肌がひやりとして身を縮めたくなるような。近所のクリーニング屋さんへ行った。先日頼んでおいた衣類を昼までに引き取らねばならないからだ。店は昼で閉まると、8月の終わりまで休みだからだ。店には先客がいた。しかもすごいお喋りの。彼女たちのお喋りに耳を傾けながら10分も待つと、ようやく自分の番がやって来た。いつも思うのだけど、クリーニング屋さんとは何故もこう暑いのだろう。私は鞄からハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。女主人が笑う。店の中は常夏なの、と。早々に衣類を引き取って、良い休暇を、と挨拶を交わして店を出ようとすると、客がまたはいって来た。扉を開けるなり陽気そうに話し始める客。いかにもお喋りが好きそうなタイプだった。彼の前に店に入れたことを心から感謝した。

20年前の夏、相棒と私はボローニャ郊外の町オッザーノに暮らし始めた。アパートメントではなく、相棒の古い知人の家の一部だった。ボローニャにそんな暮らしが待っていようとは夢にも思っていなかった私は、しかしそうなるまでの過程から此れ以上良い案は無いと知っていたから、文句のひとつも言わずに暮らしに溶け込む努力をした。真夏で、誰もが海や山へ行ってしまい、私達は取り残されたような気分だったが、取り残されたのはこの知人家族も同様で、私達は昔からずっと一緒だったかのように寄り添うようにして夏を過ごした。彼らが家を離れなかったのは、彼らの家畜や農作物の為だった。そうだ、彼らは無農薬農業を営んでいて、私達は農家の大きな家の一角に住まいを貸して貰ったのだ。朝は牛と鶏の声で目が覚めた。窓を開け放って眠っているものだから、まるで耳元で大声を出されたみたいに飛び起きる毎日だった。まるで、何時まで寝ているんだ君たちは、言われているような気がした。街の生活しかしたことのなかった私達にはまったく辛い朝だった。まだ仕事についていなかった私は、毎日が夏休みで、しかしこの先もずっと休暇の生活が続くのではないかと思うと心配でならなかった。ボローニャに引っ越してきて3か月目のことだ。彼らは暑い夏空の下でよく働いた。彼らの農作業がすっかり終わると空もようやく暗くなって、夜風が気持ちよかった。相棒と私のふたりだけで食事をしても良かったのだが、遠慮などするものではないと知人家族が強く誘ってくれたこともあって、覚えている限り毎晩夕食を共にした。牛肉も鶏肉も卵も野菜も果物も、彼らの日頃の努力の賜物だった。その賜物は自家製ワインまでに至り、思えば私と相棒は金銭的には決して豊かとはいえなかったが、夕食に関しては何処の誰よりも豊かだったのではないだろうか。パンにしても菓子にしても、どれもが手製で、水は確か何処かの山の岩からの湧き出る水だった筈だから、自然や人間の手によって作り出された恵みに満ちていたと言ってよかった。時には彼らの友人たちが加わって、賑やかな夕食になった。ある日の晩、そんな彼らの友人たちの家に招かれた。知人夫婦が農作業や家畜に世話をすっかり終えてシャワーをしてからの出発だったから8時を過ぎていただろう。目的地は標高800mの山の天辺とのことで、車はぐいぐいと坂道を上った。と、運転していた相棒がブレーキを踏んだ。羊だった。毛を刈られてスリムな姿の羊たちが道をゆっくり横断していたのだ。羊飼いが、さあさあ、早く横断しないと、と急かしてみるが効果は全くなかった。100匹もの羊が目の前を通過していくのを、私は子供のように喜んで、それから一週間もみんなの笑いの種になった。山の上の夕食は飛び切り美味しく、晴れた夜空には何万もの星が輝いていた。もう一度行こうと話していたのに、そのうち夏が終わってしまい、どのうち秋から冬へと移り変わり、そして私は仕事を得てローマへと発った。それっきりだ。相棒はその後9か月間知人家族のところに居座って、そしてローマから私を呼び戻すためにボローニャ旧市街へ歩いて行ける界隈に小さなアパートメントを借りて、私はボローニャの生活を一からやり直すべく好きだったローマを後にした。そんなことがあったことを普段はすっかり忘れているけれど、あれが私のボローニャ生活のスタートだった。忘れないでいたい。そうして安定した生活を得た現在を、時には感謝しなければ、と思う。

夕方から雨が降っている。車が水飛沫を上げて走り去る音に耳を傾けながら、猫は深い眠りに就いた。今夜は私も深い眠りに就けるに違いない。


人気ブログランキングへ 

コメント

こんにちは、yspringmindさん。
雨が降ってよかったですね。
相変わらず、猛暑です。yspringmindさんと同じく、冬よりは暑くても日差しの強い夏はいい。氷を入れた水が一番さっぱりとして好きです。
この夏はどこかに出かけられますか。

2015/08/02 (Sun) 05:38 | つばめ #- | URL | 編集

とうとう8月に入ってしまいましたね。それにしても今年のヨーロッパは暑い。ミュンヘンも猛暑といってもいいくらい暑く、慣れてないドイツ人はてんてこ舞いです。
農家の生活、朝動物たちの声で起きるのは、いつまでたっても耳から離れない思い出でしょうね。。

2015/08/02 (Sun) 08:04 | inei-reisan #pNQOf01M | URL | 編集
管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2015/08/02 (Sun) 09:13 | # | | 編集
栗の季節

yspringmindさん、8月とともに涼風のようで、よかったですね。
連日、隣の小学校の耐震工事の音がやかましく、ときには歩いて10分くらいにある市立図書館に退避したりしていました。さすがに土日は向こうも休みかと思っていたら、なんと朝9時から騒音が始まりました。でも今日は函館もやや外気温が下がって、ベランダや窓を閉め切ってみたら騒音もかなりシャットアウトできて、読書がだいぶ捗りました。今は塩野七生の「フリードリッヒ2世」を読んでいます。神聖ローマ皇帝にしてシチリア王、最後の十字軍を率いた彼の生涯を初めて詳しく知ることができました。実は次回は南イタリア?と考えていたのですが、まだ難民問題もあるようなので、いっそドイツ側からブレンナー峠を越えてベローナ・ボローニャに行こうかと家人と相談しています。まあ来年の9月ー10月でしょうね。貴地では「栗」とか秋の果物はいかがでしょうか?11月だと寒いでしょうね?

2015/08/02 (Sun) 11:21 | Yutaka Hoshino #rmkBes5Y | URL | 編集
暑さも和らぎ良かった。

yspringmindさん、恵みの雨待ち遠しくて、やっと少し涼しくなったボローニャ
次日本が猛暑39度を超え、昨晩は暑さのあまり目が覚め中々眠れなく、先月yspringmindさんが仰てた暑いお気持ち実感できました。
暑い日々大変お疲れ様でした。
檸檬カラーのパンツ焼けた肌に素足でモカシン暑さが和らげたならお洒落をしてリフレッシュできますね。

サンフランシスコ、ボローニャでの様々な思い出、日本では経験できない貴重な体験をなさって感謝の気持ちを持ち続ける、尊敬します。

8月の暑さを乗り切りましょう♪

2015/08/02 (Sun) 13:35 | すみれ #.i0sgZR6 | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。雨が沢山降って空気が綺麗になったのを感じます。朝晩は20度を下り、窓を閉めての睡眠です。
日本はその反対に凄い暑さだそうですね。しかし強い見方があるではないですか。鰻の蒲焼。此れで乗り越えてくださいね。
この夏休みの予定は今のところなしです。日帰りで近郊の町や山や海に、行ったり来たりを予定しています。

2015/08/02 (Sun) 17:33 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

inei-reisanさん、こんにちは。8月です。驚きですね。ところでミュンヘンも猛暑って・・・それは本当のことですか。私はミュンヘンに限っては涼しくて快適、案外涼しすぎてジャケットなどが必要なのかしらと思っていたのですが。
農家の生活はあれが初めで最後でしょうか。兎に角、雄鶏の早朝の一声は今だって忘れていませんよ。キッッッキリキー!!! と、とんでもなく甲高い声で叫ぶんですから。

2015/08/02 (Sun) 17:37 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし


鍵コメさん、こんにちは。人間時には順応していかないと生きていけないこともありまして、その点では私は選択の余地がなく、順応するように努めなければならなかったということになります。しかしながら、順応できたのは単に私の努力だけではなく、周囲にいた人々の助けや応援があったからでして、そういう意味でも感謝をしなければいけないと言う訳です。きっとうまく行く、と前向きな気持ちで居ても、うまく行って当たり前と思ったことはありません。私はそれほど運の良い、恵まれた人間ではありませんから。その代わりに、上手くいかなくて当たり前と思っているから、うまく行かなくても、まあ、そんなもんさ、とけろりとしていられる強みがあります。
田舎には思いがけないものがありますね。流れ星を一晩に10も20も見たことはオッザーノに暮らすまでありませんでした。それどころか、流れ星を見たことすらありませんでした。夜の静けさも素敵でした。人が喋るのを止めると、虫の音だけが聞こえました。運の良い方ではないと言いながら、こんなことを知ることが出来たのだから案外運がいいのかもしれません。
良い夏休みをお過ごしください。

2015/08/02 (Sun) 17:47 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: 日本も暑熱が一段落です


Hoshinoさん、こんにちは。昨日、今日と夢のような涼しい週末でした。しかし明日からは暑さが舞い戻ってくるそうですから、やはり8月なんですねえ。それにしても面白いことです。お隣の小学校の耐震工事。イタリアでは夏の休暇シーズンに工事などしません。作業をする彼らもまた、夏の休暇だからなんですよ。ましてや土曜日なんて。お国柄なんでしょうか。
次回は南イタリアですか、それとも北から入りますか。難民問題はあるものの、9,10月の南イタリアは魅力的です。あの辺りにはまだ夏の賑わいが残っていて、ボローニャ辺りとは様子が違いますから。そう言いながらブレンナー峠を越えてヴェローナ・ボローニャも魅力的ですね。ヴェローナは私の好きな町のひとつです。街角の焼き栗は10月初旬に出没しますが、市場の店先につややかな栗が並ぶのは10月中旬下旬でしょうか。11月は冷え込みます。でも、11月も実にボローニャらしくて、私は気に入っているのですよ。

2015/08/02 (Sun) 17:57 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: 暑さも和らぎ良かった。

すみれさん、こんにちは。二晩続けて快眠しました。家の窓をきっちり閉めての睡眠。久しぶりの事でした。しかしあすから熱さが戻るようなので檸檬色のパンツでお洒落…は少し先に延びてしまいました。ま、夏の終わりでもいいでしょう。日本は暑いようですね。39度…厳しいですね。暑くて眠れない気持ちの共有、ありがとうございました。睡眠と栄養を摂って乗り越えてくださいよ。9月には楽しい旅が待っているのですから。

2015/08/02 (Sun) 18:01 | yspringmind #- | URL | 編集

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する