
蝉の声で目が覚めた。土曜日。もう少し眠っていたかったが、蝉の声で目が覚めてしまったし、それに旧市街を散歩するならば朝の少しでも早い時間が理想的と思って、起きることにした。快晴。これ以上の快晴は無いだろうと思われるほどの快晴だった。
朝食を済まし、猫をたっぷり可愛がった。平日の朝は兎に角忙しくて素っ気なくしている分、週末は猫をたっぷり可愛がるのだ。猫の方もそれを承知のようで、週末の朝は、ねえ、今日は急いで出掛ける必要ないんでしょう?みたいな感じで私の足に尻尾を巻き付けて纏わりつく。
洗濯物を近くのクリーニング屋さんへ持って行ったら、女主人がひとりで頑張っていた。夫の方は釣りに出掛けているらしい。こんなに良い天気だものねえ、と顔を見合わせながら、しかし釣りに行くってことは健康な証拠だからと言葉を加えて、そうだそうだと互いに頷く。元気なうちに楽しんでおかなくてどうする、と私達は同じ人生の思想を持っているのだ。
クリーニング屋の女主人と長話をしたために旧市街に着いたら気温がすっかり上がっていた。食料品市場界隈の二軒の鮮魚店は共に大繁盛で、狭い道一杯に客が居るために通り抜けるのが大変だった。いつもは左手の店が客で賑わっているのに、今日は右手の方が客が多い。何か特別な魚があるのだろうか。それとも時間帯によって、客の集まり具合が違うのだろうか。八百屋の店先の花形スターはトマト。呼び名の違う様々な形のトマトが並ぶ様子を見ていると、此処がイタリアであること、今が夏であることを改めて感じる。それからズッキーニの花。これを小麦粉を水で溶いたものにくぐらせてひまわり油でからりと揚げたものは、夏のご馳走。揚げたてに自然の塩をひとつまみ振りかけて頂くと、今年も良い季節になったのだと喜びが込み上げる。でも買い物はしない。買い物をしたら重くて重くて、散歩どころではなくなるから。トマトもズッキーニの花も眺めるだけ。今日は歩きたくて仕方がないのだ。街は一足早く夏の割引が始まっていた。サルディではない。サルディは市で始まる時期が定められているので、勝手に始めることは出来ないことになっている。しかし近年はサルディと名乗らぬ割引を何週間も前から始める店が多い。例えば相棒の靴を見るために靴屋に入ってみたところ、店員が案内してくれるのだ。価格は3割から5割引きますので、気に入ったものがあったらお知らせください。と、こんな具合に。だから店に入ってみることが必要だ。しかしこの調子では、サルディが正式に始まる頃には良いものは売れてなくなっているに違いない。5割という言葉に心を揺らすが、ここでもただ眺めるだけ。今日は買い物をしたくない。今日の私はこのカンカン照りの土曜日に、日陰を求めながら街を彷徨うのが楽しくて仕方がなかった。カフェのテラス席はまばらに満たされていて、ぬるい風が人や建物の間を縫うように流れていった。暑さは年々苦手になっていくが、それでいて夏でも土曜日の散歩はこれからもずっとやめられそうにない。言うなれば私の趣味みたいなもの。週末を楽しむ一つの方法みたいなもの。そうして疲れたら、渇いたのどを潤すためにカフェに飛び込んで、レモンジュースを注文するのだ。このレモンジュースと言うのは、レモンを2,3個絞って貰ったもので、それに幾つもの氷の塊を入れて砂糖を入れてぐるぐるとかきまぜたもの。どの店にもあるとは限らないが、頼めばリストにないものだって快く作ってくれるのがイタリアの良いところだと思う。酸っぱくて冷たくてちょっと甘いレモンジュース。ビタミンを摂ったら、再び散歩の始まりだ。
歩き過ぎたわけでは無いのに酷く疲れたのは暑かったせいだ。この季節の散歩は程々にするのが良いだろう。どんなに好きなことも、程々にしておくのが私にはちょうど良い。
朝から蝉が鳴き続けている。もう夜の9時だというのに。気が狂っているかのように、ひたすら泣き続ける蝉。夏の象徴のひとつとはいえ、そろそろ鳴き止んでも良いのに。
