偶然の不思議

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人間とは賢く、環境に慣れていくものである、と言ったのは何処の誰だろう。私は今年の6月の暑さに、慣れることが無いだろう。自分の体温を調節したり、生活リズムを調節して、この暑さとうまくやっていく努力が足りないのか、それとも元から努力する気が無いのか。何にしても私はこの暑さに負けそうなのだ。そんな私を癒してくれるのは夜遅くになってから吹く緩い風。そして夜中の冷えた空気。火照った肌を冷やしてくれる。一日の疲れをやんわりひんやり包み込んでくれる。一週間がまるで早送りの映画のようにして過ぎていく。それを残念に思うことは無く、寧ろ、其れで良いと思う。そうしているうちに夏休みになるだろう。楽しいことは待ち過ぎない方が良いのだ。

土曜日。もう少し眠っていたかったが早めに目を覚ました。旧市街へ行こうと思っていたからだ。こんな暑さだから、散策は早めに始めるのが得策だ。なのに家を出たのは既に外がすっかり暑くなってからで、来週はもう少し早く起きなくては、と思いながらバスに乗った。いつもなら市街地から旧市街に真直ぐ侵入する13番のバスが、左折してしまった。そうして旧市街を取り囲む環状道路を走り始めた。あっ、と思ったのは私だけではない。誰も何も知らされていなかったから、何が起きたのだと騒ぎになった。最近こんなことばかりだ。旧市街の道路工事のせいで、突然バスの路線が変更される。まるで当然と言わんばかりに。乗客たちが運転手に訊きだした話によると、大きなデモ行進があるために旧市街の一部が警察によってプロテクトされているのだそうだ。大きなデモ行進って? と訊いたものの、運転手もそうとしか知らされていないらしく、さあてねえ、ということだった。この辺りでデモ行進だなんて珍しいけれど何だろう、と乗客同士で話し合っているうちに予想もしないところで旧市街に入ったので、大急ぎで其処で下車した、本当はもっと先で降りたほうがよかったというのに。
通りの名はVia Santa Isaia。近年この辺りを歩くことは皆無で、実を言えば最近は記憶から忘れていたくらいである。別に無名の通りではない。ただ、ここまで来なくても私の用事の総てが済んでしまうからで、そして私が使うバスの路線がこの通りを通らないからでもあった。この辺りを歩いたのは20年前の今頃。毎日歩いた。私と相棒がボローニャに移り住み、しかし相棒の両親の家で寝泊まりせずに、この界隈に暮らすクリスティーナのところに2週間、そして後にまた2週間泊めてもらうことになったからだ。そんな居候の身だったから、私のボローニャ生活のスタートは少々肩身が狭かったと言えよう。彼女のアパートメントにはごちゃごちゃと沢山の物が置かれていて、その殆どがヴィンテージやアンティークで、其れなりに価値あるものだった。寝室の入り口の傍にある小さな鉄製のテーブルの上に美しい朱色と白のティーカップがあった。それは受け皿が無いから二束三文で手に入れたけれど、実はとても希少価値の高いものなのだそうだ。中には幾種類ものリラ硬貨が入っていた。いつも横を通るときに衣服でひっかけないように気を付けていたのに、遂にやってしまった。幾つもの欠片になってしまった彼女のティーカップ。外から帰ってきた彼女に謝る私に、彼女は悲しそうな顔をしながらも、でも、こんなところに置いておいた私が悪いのよ、と言って、大丈夫、気にしないで、と私の肩を撫でた。私がこれほどの年月が経ってもそのことを覚えているのは、私が今でもこの件を残念に思っているからに違いなく、彼女は気にしないでと言ったけれども、もう10年くらいは忘れられないだろう。彼女のアパートメントはこの通りからひょいひょいと路地を入った辺りの、外見は恐ろしく古くて朽ちた建物だった。彼女の部屋へと続く階段は狭くて薄暗かったけれど、中に入ると昔ながらのボローニャを大切に守って来たと言わんばかりの、素朴でがっしりとしていて、外の暑さが嘘みたいにひんやりとしていた。ピアノーロの家を売ってボローニャ市内に戻ってくると決めた時、真っ先にこの界隈を探した。ひょっとして彼女が住んでいた家が売り出しに出てはいないかと思って。旧市街の古い質素な界隈にあったあの家には薔薇の花が咲く美しい中庭があって、私は毎朝窓を開けてそれを眺めるのが楽しみだったから。その辺りで売り出している家などひとつもなく、手放したい人が居ないということは、つまり住み心地が良いからなのだろう、そう思って、諦めた。バスの路線が急遽変わってこの通りを歩くことになったことを私は不思議に思った。偶然の不思議。あの頃のことを、そしてあの頃の気持ちを思い出せということなのか。失うものなどひとつもなかった相棒と私だった。あるのは相棒と私、そして私達を取り囲むごくわずかな人たちの支えだけだった。

雨が降るのだろうか。空が妙に暗い。昼間の明るさはどこかに隠れてしまい、灰色の雲と、異常なまでの湿度を含んだ風だけが残った。此れが典型的なボローニャの気候なのよ。今更知った訳ではないでしょう? ボローニャの知人たちは、きっとそう言って私を窘めるに違いない。


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コメント

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2015/06/14 (Sun) 13:23 | # | | 編集

こんにちは、yspringmindさん。
一週間がなにげに過ぎた方がいいですよね!
写真は初夏らしい明るい色。

2015/06/14 (Sun) 19:12 | つばめ #- | URL | 編集
夏の入り口1

yspringmindさん♪こんにちは。
クリスティナーと偶然の再会があれば良いですね。
湿度の高い季節6月、盆地の京都暫くは蒸し暑さ続きあまり汗が出ない体質の私は我慢が必要です。冷房も得意でなくて、寒がりの暑がり運動も好まないので、体温の自己コントロールが苦手な体みたいです(笑)
イタリア雨の後はカラットしてるので、湿度の高いのはアジアだけだと思ってましたが、ボローニャも湿度が高いの初めて知りました。
夏の入り口お互い上手く乗り切りたいものですね。

さて楽しい旅行の事考えてまして、7月初めのフィレンツェ少し閑散としてますか。

2015/06/15 (Mon) 06:26 | すみれ #GYxcADzc | URL | 編集
Re: タイトルなし

鍵コメさん、こんにちは。この辺りには古くから住んで居る人が動かない、と言った感じがあリます。小学校は気が付かなかったけれど、高校があり、それから裏手の方に子供たちが運動する運動場みたいなものが存在します。そう言えば小さな子供たちが沢山歩いていたのを20年も経った今頃思い出しましたよ。そうか、小学校があるのかもしれませんね。
ところで私、ボローニャに住んで随分経ちますがロンドンへ行ったことがありません。一度行きたいと思いながら何故もこうぐずぐずしているのかと皆にからかわれますが、全くそうだと自分でも思います。アンティークを見に足を延ばすのもいいですね。
ご自宅の近くにポルトガル料理店があるそうですが、それはいいですねえ。久しぶりにポルトガル料理を食べたくなってきましたよ。

2015/06/16 (Tue) 19:57 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。飛ぶように過ぎる一週間。今の私には大変ありがたいことなのですよ。
ところで昨日から夏らしい明るいいるが一転して大変な雨雲が上空を覆っています。喜んでいるのは植物だけ、でしょうねえ。

2015/06/16 (Tue) 20:03 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: 夏の入り口1

すみれさん、こんにちは。クリスティーナは今では旧市街の別の通りに居を構えています。そんな彼女と数年前、山の中を車で走っていたらばったり会って、本当に驚きました。
ところで私も同様に汗が出ない体質で、冷房は大の苦手で、寒がりの暑がり。体温の自己コントロールが苦手なんてところまでそっくりですよ。ですからボローニャ、結構体に堪えるのですよ。昔住んでいたサンフランシスコが懐かしいのには、そんな理由もあるのです。夏は明るくて楽しいけれど、もう少し爽やかな気候だったら、もっと素晴らしいのに、と思うのですが、欲があり過ぎでしょうか。
えーと、7月初めのフィレンツェですが、閑散と言う訳にはいきません。あの町は一年通して人が多いのですから。でも、悪くないですよ、7月。私は好きです。日も長くて存分に楽しめるのではないでしょうか。

2015/06/16 (Tue) 20:10 | yspringmind #- | URL | 編集

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