いい匂いがする

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雨。昨日から雨が降り続け、緑が一層濃くなったように見える。しかしこの肌寒さは何だ。昼間とて15度にもならない5月下旬は、ボローニャに暮らすようになってから初めてのことかもしれない。傘からしたたる雨が短い丈のコートの裾を濡らし、靴の表面に水滴が躍る。まるで日本の梅雨時の雨のようだった。

先週の土曜日、近所の店で石鹸を買った。昨冬、店主から手作り石鹸を貰って使って以来、私と相棒はこの店の石鹸にぞっこんだ。いろいろ試してみたがラベンダーの石鹸が気に入りだ。先週の土曜日、近所の店で石鹸を買った、とは言うけれど、実際買いに行ったのは相棒だ。店の隣のバールに居るに違いない相棒に電話をして、買い物を頼んだのだ。あれこれ指示すると面倒く臭さがると思って、好きなのを買ってきてくれればいいとだけ言って。夕方、彼は薄紫色のリボンを掛けたセロハンの袋を手に帰って来た。中には3種類の石鹸。話を聞けば彼が注文したのはラベンダーの石鹸ひとつで、残りは店主が試してごらんと言って袋に入れてくれたものらしかった。袋を開けるといい匂い。私の遠い記憶を呼び覚ますような。シナモンをベースにした石鹸だった。琥珀色の石鹸で、水にぬらして手の中で転がしてみると、更にいい匂いを放った。そして私は思いだしたのだ。あの店の匂いと同じことを。
私が4年間暮らしたアメリカの町はサンフランシスコ。磁石に引きつけられるようにしてその町を訪れて、一目で町に恋した。それから年に数回通うのを数年続けて、まるで駆け落ちのような形で家を飛び出して、その町に暮らすようになった。質素な暮らしだったが幸せだったのは、そんなことが理由だっただろう。私はその町が好きだったから、何をしても何を見ても、幸せ以外の何でもなかったのだろう。気に入りの場所は山ほどあったけれど、其の中のひとつがフィルモアという名の通りだった。この通りは南北に走っていて、並行して走る他の通り同様になだらかな坂を上がっていくと、やがて頂点に辿り着き、其処から湾に向かって坂を下っていくと言った具合だった。私がこの通りを始めて歩いたのは、私がまだ単なる訪問者だった時代だ。偶然だったわけではない。この町に30年だか暮らしているという人から話を聞いて、興味を持って来てみたのだ。小さな店が連立しているこの通りを見て歩くのは時間がいくらあっても足らなかった。どれもが個性的で、ただ見て回るだけだったけれども、私の感性を刺激してやまなかった。信号を渡って直ぐ角の店。其の店に入るといい匂いがした。俗に言う雑貨店。でも、店主の拘りを十分に感じる品揃えで、そのひとつが匂いだった。そうして私がこの町に暮らし始めると、週に一度は其処に足を向けた。時には手紙を書くための拘りの質の便せんや封筒を買い求めたり、時にはただぶらぶらと眺めてみたり。友人知人の間でもこの店のことは評判であったけれど、その存在を知らぬ人は居なかったけれど、面白いことに誰一人匂いに気が付いていなかった。え、匂い? そう言われて、私は驚いたものだ。あんなに鼻先をくすぐるような匂いがしていたのに。毎週通ったのに、ついに匂いの源が分からなかった。
石鹸で手を洗いながら思い出した、あの店の匂いと同じだと。どうして今まで気が付かなかったのだろう。シナモンだなんて。シナモンの匂いだったなんて。勿論シナモンばかりではないだろう。シナモンと何か。その配分が絶妙で、いい匂いが私を遠い昔に連れて行こう、連れて行こうとするのだ。
サンフランシスコのあの店の匂いがする。そう言ったら、相棒は何と言うだろうか。自分の故郷ボローニャに暮らすことで、あの時代のことはもう忘れてしまっただろうか。彼は20年も暮らしていたけれど、ボローニャに戻ってきてから同じ年月が経ってしまったから。私は、私は何年経っても忘れないだろう。自分が選んで暮らした町だもの。あれから20年という歳月が経った。20年前の5月23日に相棒と私はあの町を後にしたのだから。私達にとっては結婚記念日と同じくらい、深い意味のある日。私達が大好きだったあの町を後にして、ボローニャで新しく生活を始めようとした日。

私達は、あれから成長しただろうか。私は。私ひとりに関して言えば、あまり成長した様子がない。


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コメント

yspringmindさん、こんにちは

なるほど、5月23日は

特別な日なのですね^^

どちらも、同じ匂いを持つ街なのですね

2015/05/23 (Sat) 10:41 | 高兄 #eP1cGWnA | URL | 編集
Re: タイトルなし

高兄さん、こんにちは。あれから20年が経ったなんて驚きです。ボローニャに行くと決めておきながら、出発を目の前にして空港で、此処を離れたくないと泣いたのが昨日のことのように思えます。匂いで、色んなことを思い出しました。

2015/05/23 (Sat) 19:40 | yspringmind #- | URL | 編集
こんにちは

感慨深い話で締めくくられましたね。20年も相棒さんがサンフランシスコに住んでいたのに、忘れることなんてあるはずはないんじゃないですか。たしかに匂いというのはそのたびにいろいろな思い出を引っ張ってきますよね。私も似たような経験をしたことがあります。ところでいまはチェコからブログを覗いてます。そしたらテレビでユーロビジョンやってて、変な感じなのです。パリでみて、リヨンでみて、ミュンヘンでみて、チェコで見る。いつもこの放映の時にいつも偶然にテレビをつけているなんて。。

2015/05/23 (Sat) 22:09 | inei-reisan #pNQOf01M | URL | 編集
Re: こんにちは

inei-reisanさん、チェコに居るんですね。一人旅は如何でしょうか。
相棒が今でもサンフランシスコの頃のことを覚えているといいな、と時々思います。彼はボローニャに戻ってきてから、昔と感じが違うからです。昔はもっとこう、柔軟で、アーティステックで・・・と言い出したらきりがないけれど。彼はボローニャに居るのが心地よいのでしょう。やはり自分の故郷だから。私は20年経ってもやはり異国人であることに変わりはなく、恐らくこれから10年経っても同じように異国人でしょう。
ユーロビジョン。私はそのことをつい最近知ったのですよ。inei-reisanさんはパリで、リヨンで、ミュンヘンで、そしてチェコでも見ているのにね。

2015/05/24 (Sun) 00:15 | yspringmind #- | URL | 編集

こんにちは、yspringmindさん。
こちらは、今日は晴れで蚊も夕方には飛び、5月にしては暑い日でした。

大切な場所ですね。
サンフランシスコ。
相棒さんと行かれることを祈っています。行けますよ、yspringmindさん。

2015/05/24 (Sun) 15:05 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。今日はボローニャも晴れました。しかし半袖姿になるまでには、まだまだ時間が掛かりそうです。
私にとって大切な場所。相棒にとってもそうであればいいのに。

2015/05/24 (Sun) 22:02 | yspringmind #- | URL | 編集

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