たった一日の逃亡

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駆け足の毎日は私らしくないと思う。私はもっとのんびりと、周りを眺めながら歩くようにして生活するのが好き。でも、好きとか嫌いとか抜きに、時にはそういう時期もあるもので、そんな時には目を瞑って、ええい、と乗り越えてしまえばいい。そうして乗り越えたら、またいつもののんびりスタイルの生活に戻れるはずだから。

魚市場前の小さなバールの中には10人もの客が、まるで押し合うようにして立っていた、カッフェを飲む人あり、パニーノを齧る人あり、グラスに注がれた白ワインを楽しむ人あり。この魚市場に来たのは偶然ではない。以前此処に来た時に妙に心に残ったからだ。昼過ぎとあって市場は終わっていて、既にコンクリートの床を水で洗った後だった。其処に居るのは数人の市場の関係者で、明日の話でもしているようだった。別に市場が終わっていたからといって落胆したでもなく、私は此処に来れただけで十分満足だった。昔、ヘミングウェイがこの街に居た頃、この市場に通ったという。別にヘミングウェイが好きなわけでもないけれど、そして彼の本を愛読したというでもないけれど、私はヘミングウェイという響きを大変好んでいて、何かとこの名を聞くたびに心が揺れると言う訳だった。バールは市場に通う人たちの気に入りの場所らしい。店の外にまで人が溢れていた。そして溢れていたのは人ばかりでなく、カッフェのいい匂いまでもが。私はバールを横目で見ながら先へと足を進めた。何しろ私は此処では完全な異国人だから、どれを見ても目に新しく、何かを感じる要因だった。異国人と言うのはつまり、私が日本人だからと言う訳ではない。つまりこの町に住んで居ない人と言う意味で、例えばこの町にローマ人やフィレンツェ人が来たとしても、同じように異国人の立場になるだろう。州ごとに異なった文化、食文化、言葉のイントネーションや言い回しを持つイタリアは、イタリア共和国と称しながらも各州が異なる国で、過去と同じように、これから先も多分そんな風であるに違いないのだ。この町の路地の多さはボローニャの比ではない。やっと人ひとりが通り抜けられるような路地もあれば、人がふたりすれ違えるような路地もある。その先々に大小の広場が存在して、そしてまた路地が続く。空腹を感じたので、一杯飲み屋風の店に飛び込んだ。椅子は4つしかなく、いかにも近所で働く人や住んで居る人がちょっと立ち寄るためにあるような店だった。軽めの白ワインと何か小腹を満たすもの。そんな注文の仕方をしてみたら、店の人がちょっと考えてから出してくれた。気の利く人らしい。それともこの辺りでは、こんな風に注文する人が案外多いのかもしれなかった。ボローニャ辺りでそんなことを言ったらば、え? みたいな顔をしてああでもないこうでもないと、物が目の前に並ぶまでにえらく時間が掛かるのに。天井につる下げられた10個以上ある銅製の大鍋。壁に貼られた古い新聞。そうしたひとつひとつを眺めていたら、私が考えていた以上に長い歴史を持つ店であることが分かり始めた。店の人が出してくれたもののひとつに白ポレンタがあった。と言っても口に入れるまでは其れが何であるかは分からなかったけれど。ポレンタと言えばふつう黄色いトウモロコシの粉を使うけれど、この辺りには白いトウモロコシが存在するらしい。耳にしていたが、そうかこれが有名な白ポレンタだったのかと、私は大変満足だった。小腹が満足したので店を出た。また立ち寄ることを約束して。旅行者の多いこの町で、こんな店を見つけることが出来たのは、幸運と言うしかなかった。そしてその後、足を運んだのは、礼の混み合ったバールである。食後にカッフェ。これをしない訳にはいかない。店はピークの時間を終えたらしく客がひとりも居なかった。短いカッフェ、お願いします。そう注文すると、店主はこの客に手応えありと言わんばかりに目を細めて、カッフェを淹れてくれた。短いカッフェと言うのは、通常のイタリアのカッフェよりも更に少なめの、つまり凝縮したカッフェのことだ。食後はこれがいい。この店のカッフェは美味しいと見込んだならば、特に。出されたカッフェが放ついい匂い。一口含んでみて、やっぱりと思った。美味しいものは笑みを誘う。私は笑いが止まらなくなった。先ほど前を通ったら、外まで客がはみ出ていたこと、いい匂いが外まで放たれていて、この店のカッフェは絶対に美味しいと確信していたこと、だから近所で軽食をとって戻ってきたことを早口でまくしたてると、店主は勿論さ、という表情で黙って大きく頷いた。立ち飲みカッフェ、しかも飛び切り美味しいカッフェが1ユーロ。悪くない。うん、全然悪くない。

駆け足の生活に疲れたら、時には逃亡。それが良いとか悪いとか、様々な意見があるかもしれないけれど、そんなものは自分が決めることで、人がとやかく言うものではない。逃亡で気持ちや感性が元気になるなら、こんな素敵なことは無い。


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コメント

こんにちは、yspringmindさん。
こちらは暖かな日でしたよ。
気持ちが和みます。
つばめもびゅんびゅん飛んでいます。

ポレンタ、やさしそうな味ですね。

自分で決める!
私もそのようにつよくありたい。

2015/04/27 (Mon) 15:02 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。暖かいと気持ちも緩んでいい感じですね。ボローニャには少し寒さが戻りました。何しろ雨が降っていますからね。
ポレンタはどうってことのない料理なのですが、ところが案外美味しくて、冬場などは好んで食べたりするのですよ。元々は、ヴェネト州の郷土料理みたいなものです。
何でも自分で決める。これは誰にでもできることなのですよ。

2015/04/27 (Mon) 21:28 | yspringmind #- | URL | 編集

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