土曜日が好き

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正午に家を出た。行先は旧市街。毎週、土曜日が待ち遠しい。私にとって土曜日とは、何のDutyも無い、自分の為に自由に使える日である。唯一あるのは近所に暮らす知人とのカフェでの日本語のお喋りくらいで、其れもまた、気分がのらなかったり体調が悪かったり他にしたいことがあるならば、延期すればいいだけのことだ。朝の早起きも必要ないし、バスの時間を気にすることもない。時には小さな約束があって、時間を気にしながら早々に散策を切り上げねばならないこともあるけれど、極力何の約束もいれないで自由気ままに過ごす、これが私の土曜日だ。かと言って、家を出たら最後、糸の切れた凧のように戻ってこないなんてことは無く、散策に満足したら家に戻る。戻る家があるのは有難いものだ、などと思いながら。其れに猫が居るではないか。日頃独りで留守番をしている猫にしてみたら、週末くらい家に居てほしいと言ったところだろう。だから玄関のドアを閉める前に声を掛けるのだ。今日は早めに帰ってくるから、と。でも、猫はこんな風に思っているに違いない。そうかしら。何時もそんなことを言って、充分帰りが遅いけど。

旧市街に着いたのは太陽が一番高い時間帯で、眩い光に溢れていた。時折吹く強い風がびっくりするほど冷たいけれど、気温は確実にいつもより高く、街のデジタル温度計は13度を示していた。こんな時間に歩ける喜び。本当のことを言えば、目覚まし時計を止めた後にもう一寝入りしてしまい、この時間になってしまっただけだった。2月も残り1週間。そう思うと心が逸る。街のショウウィンドウに春のコートなどが飾られていやしないだろうかと探してみた。例えばレモン色や、気分がすっとするような明るい緑のコートなど。でも、見つからなかった。まだ早すぎるということだろうか。人の波にのまれたようにして、食料品界隈に足を踏み入れた。並んで在る2軒の魚屋は、どちらもが競うように大変な繁盛ぶりだった。辛抱強くないイタリア人たちが、郵便局などでは1分でも早くことを済ませたいと他の人を出し抜くイタリア人たちが、文句のひとつも言わずに魚屋の前で待つその姿は、珍しい植物や野鳥にも値する。新鮮でおいしい魚を得るためには、忍耐力が必要、ということなのだろうか。今度誰か身近な人に訊いてみることにしよう。小路を通り抜けられないほどに広がった2軒の魚屋を取り囲む客たちの輪を、すみません、ちょっとすみません、と声を掛けながら先に進むと、その先には趣味の良い小さな彫金の店があって、その筋向いには高級鍋や食器、かと思えば釣り道具なども扱う摩訶不思議な店があって、この界隈は退屈する暇がない。面白いのは品物ばかりではない。古い建物、例えば1800年代やそれよりも前の建物の地上階を利用した其れ等の店の内部は、感心するばかりである。先日、他の通りの骨董品店に入ってみたところ、外からは想像出来ぬほどの奥行きのあるウナギの寝床のような店の作りに驚くと同時に、天井の驚くほど高いことや手つかずのフレスコ画に、肝心の骨董品を物色するのを忘れて天井ばかり眺めていた。だから店員に何か探し物かと訊かれた時、天井画、などと見当はずれな返事をして近くにいた人々に笑われたものだ。1800年代の足の長い20センチ四方のテーブルを探していた私は、それが無いのを確認して店を出たが、また来月にでも立ち寄ってみようと思った。何か入庫しているかもしれないから、それからまた、あの素晴らしい天井画を眺めに。話は戻るが、魚屋の通りの最期には食料品店がある。言うなればこの店で野菜や果物ばかりでなく、手打ちパスタも乾燥パスタも生ハムやチーズもそのほかの基本的な食料品の殆どが手に入ると言った、全く便利な店である。いつも混みあっていて、この店の景気の良さが分かる。そんなことは無いだろうと思うけれど、何時の日かこの店が商いを辞めるようなことがあったらば、ボローニャの沢山の人々が残念がるだろう。私が好きだった靴屋さんが10年前に無くなった時も残念だったけれど、多分この店の存在は遥かに大きいに違いないのだ。

昼間の晴天が嘘のように空に敷き詰められた分厚い鼠色の雲。夜のうちに降り始めるのかもしれない。雨が降って、そして晴天になって、そんなことを繰り返しているうちに春になるのだろう。想定、9月生まれの私の猫はまだ春の素晴らしさを知らない。外で囀る鳥の声に、春が近づいている証拠だと語り掛ける私の言葉を、だから猫は少しも理解していないだろう。鳥が囀る春。新緑に溢れる春。冬眠している天道虫たちが飛び交う春。私は待ち遠しくてならないのだ。


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コメント

こんにちは、yspringmindさん。
春がちかしいことがわかる店先の光ですね。
役所で人を出し抜き、魚屋ではがまんづよくならぶ、わかりやすいといえばわかりやすい。単純といえば単純。出し抜かれるのはいやだけど。
フレスコ画が普通に生活のなかに溶け込んでるっていいですね。ごく普通に。そんななかで仕事してみたいなあ。昔の人が日常にフレスコ画を用いるって、装飾のためでしょうが、そこに楽しみを見いだしたのは、利便性ばかりでなく美しさを感じたいものなんですねえ。
生活に即した美しさが一番きれいだなと思います。私が育った家には蔵があって親戚が昔大勢集っていた頃には、今はなき祖母が買ったたくさんの小皿や小鉢の入ったダンボールを出してきました。それに家の者、母や私や妹が料理を盛るのです。そこに描かれていたなんでもないナスビの絵柄、別の皿にはふちに渋い笹の絵柄、また他の皿のふちには南天の絵柄、剛性でも派手でもない実用的な絵柄、力の抜けた絵柄、でも力強くてうそのない正直な絵柄に子供心にも感動したのを思い出しましたよ。
フレスコ画から、すごい思い出し方。
てんどうむし…ってなに?なるほど、てんとう虫のことなんですねえ。漢字でこう書くの初めてしりました!!昔の人ってすごいですね。

2015/02/22 (Sun) 16:01 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。イタリア人は案外忍耐強くないです。だいたい人が話しているのを最後まで聞かずに自分の意見を放し始めるような国民です。そして少しでも人より得しようと思っているのもイタリア人の特徴です。勿論、其れは一般論で、日本人にもいろんなタイプが居るように、イタリア人もそんな人ばかりとは限らないのですが。でも魚屋に関して言えば、見ている私の方が、まだ番が回ってこないのかと怒りだしたくなるくらい、長々と待たされているのですよ。
私は建築に関心があるわけではないのですが、イタリアの昔の建物には関心を寄せずにはいられないのです。こうした芸術が人々の普通の生活に組み込まれていることが、素晴らしいと思います。でも、よく考えたら日本もそうなのです。例えば障子戸とか。例えば襖とか。和室の美しい柱とか。ただ、あまりに日常過ぎて、に慣れていることもあって、日本に居ると忘れてしまうのかもしれません。
天道虫ですが、てんとうむしと入力して変換したら天道虫がでてきて、私も初めて知ったのでした。驚きでした。

2015/02/22 (Sun) 23:30 | yspringmind #- | URL | 編集

こんにちは、yspringmindさん。
そうですか、話してる途中に話を中断されるのかー。それは、なかなかおいおい聞いてるのかと腹が立ちそう。そのような人ばかりでないことも、もちろん知っていますが、なんとなく雰囲気が伝わってきます。一方でイタリアのふところの深いような人に出会ったとき、とてもおもしろい話も聞けそうですね。

日本の室内の障子、襖に通じる。まさに、そうですね。

2015/02/23 (Mon) 15:17 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。恐らく、恐らくなんですが、イタリア人は決して悪気があって人の話しを最後まで聞かずに応酬してくるわけではないのだと思います。言うなれば討論が好き。言葉の応酬をしてエネルギーを消費するのが好きなのだと思います。ま、相棒や家族には、人の話は最後まで聞くものだなどと諭しますが、他人にはなかなか言えませんねえ。私はお喋りが好きですが、その手の会話はあまり得意ではなく、とろん、とろんとのんびりお喋りがいいかなあ、と。イタリア人にだって、とろん、とろんとお喋りするような人は居るんですから。

2015/02/23 (Mon) 21:57 | yspringmind #- | URL | 編集

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