焼きりんごのこと

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2月になって急に気温が低くなった。それは朝晩の寒さであり、昼間の北風による寒さである。寒いというよりも冷たいと言ったほうがいいような。日が俄かに長くなって気をよくしていた矢先だったから、何か罠にでもかかったような気分である。明日は雨が降るらしいが明後日には雪が降るらしい。どれほど降るのかは分からないけれど、降るという予報だけで私には充分なのである。雪は美しくも、外へ出ねばならぬ私にとっては困った存在である。もし家の中でじっとしていられるのであれば、私は雪を愛することが出来るに違いない。多分、そう、多分。

旧市街の中心に建つ2本の塔の前をまっすぐ走る大通りが工事で閉鎖になった。こんな風にして、近ごろのボローニャは急に通行止めになってしまう。それにしたってこの大通りを、よくもまあ閉鎖してくれたものだ。おかげでバスの停留所が別の場所に移動して、酷く不便になってしまった。思うにボローニャは、何時も何処かが工事中だ。そうしてはバスの路線変更に私達は振り回されている。そうはいっても工事が始まってしまったからには仕方がなく、1日も早く大通りが開通することを祈るばかりである。そう言う訳で停留所の移動先へと歩いていたら、ふと思い出した。母の焼きりんごのこと。
私が子供だった頃、うちには数冊の手作り菓子の本があった。それは少しも洒落っ気の無い本だった。あの頃は今のようにこの手の本が豊富だったわけではないから、母が本屋の棚にある少ない選択の中から選んできたことが目に浮かぶようだった。丁寧な説明はなく、要点だけを言葉少なく記されたその本は、しかし作る側には有難くもあった。ああだ、こうだと煩くない分、作る本人が想像力を働かせたり工夫して作ることが出来た。そうして出来上がったものが美味しければ、その喜びはとても大きかった。母も自分なりに工夫したことが沢山あったと見えて、余白には様々なメモが書き込まれていた。母の得意な菓子はパウンドケーキだった。私も姉も苦いチョコレートと砕いた胡桃が入っているものが大好きだった。ある冬の午後、家に帰ると母は焼きりんごが出来上がるのを待っていた。オーブンの前に椅子を置いて、焼け具合をじっと眺めているのだった。私には生まれて初めての焼きりんごで、それは外国の匂いがした。いいや、実際には私が子供心に描いている外国の雰囲気を含んだ匂い、と言うべきだろう。母は我慢できずにオーブンを開けて中を確認してはいい匂いがキッチンの中に漂い、まだ焼き上がらないのかと私は幾度も訊いた覚えがある。そうして出来上がった焼きりんごは上部の皮がぱくりと割れていて、母は其の上に小さなバターの塊を置くといい匂いの粉を振りかけた。シナモンだった。いつもの生活にはないタイプの匂いで、私はあっという間に心を奪われてしまった。とても美味しかったのに、母はそれっきり焼きりんごを作らなかった。あまり好きではなかったのか。それとも焼きりんごよりも焼き菓子の方が作り甲斐があったのか。私はそれについて訊ねたことは一度もない。
大人になって、アメリカへ行き、相棒と一緒になってボローニャに来ると、再び焼きりんごと出会った。舅は焼きりんごが大好きで、自らりんごを買い求めて、オーブンで上手に焼き上げるのだ。私が焼きりんごを好きと知ると、舅は大変喜んで、自分の為にひとつ、君のためにひとつ、と言いながら皿の上に載せてくれた。あの頃の私達は気の合わない舅と義理の娘だったが、焼きりんごを一緒に食べている時だけは、仲良しに見えたに違いない。
食料品市場の店先に並ぶ美味しそうなりんごを眺めながら、私はそんな昔のことを思いだしていた。そうして今更ながら、自分で作ってみようかと思ってみたりもした。

昔、本棚にあったあの本を、母は今も大切にしているのだろうか。今度帰省した際に、母に訊いてみることにしよう。ねえ、お母さん、あの本を私に譲ってくださいな。


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コメント

こんにちは、yspringmindさん。
おいしそうな香りがしてきそうです。
その本がありますように。
お母さんが、思い出して楽しい話が聞けますように。
なにかのタイミングでお話したいですね。

2015/02/04 (Wed) 14:38 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。あの本は母が10年ほど前に引っ越しした際に、無くしてしまったかもしれないし、何処かにしまったままかもしれないし、誰かの手に渡ってしまったかもしれません。と、思いながらも訊いてみますよ。あの本を手に入れることが出来たなら、それは私の小さな宝物になるでしょう。
ところで母は焼きりんごのことを覚えているでしょうか。何しろたった一度だけしか作りませんでしたから。

2015/02/05 (Thu) 22:13 | yspringmind #- | URL | 編集

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