雨降りの夜

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朝から晩まで雨が降る。こんな日は、憂鬱になる。それでいて、雨に濡れた道路を車が走ってたてる音に、ほっと溜息をつく。この音は、路面が濡れている時にだけ聞こえる音。何か昔の、遠い昔の何かを思い出せそうな気分になる音だ。例えばアメリカに居た頃の、あのアパートメントでの暮らし。

サクラメント通りに面して建つ、私と友人が借りたアパートメント。窓の下をトロリーバスが通るので、うるさい。でも、その音を聞くのが好きだった。1番路線のそのバスに乗ると、一旦坂を下り、そしてまた上ると右手に緑豊かなスクエアがあって、其処は私の気に入りだった。何があるでもない。草と木と花があるだけで、後は人と動物だけだった。犬を放して運動させる人が沢山いたが、躾がよくて人に飛び掛かるような犬は何処にもいなかった。飼い主に大切にされているらしく、犬たちはとても忠実だった。そんなスクエアを右手に見ながら再び坂を下ると、フィルモア通りだった。この通りには沢山思い出が詰まっている。何故なら私が足繁く通ったからだ。風になびくとカランカランと音をたてる飾りを売る店。この店に入ったのは、私がまだこの町に暮らす何年も前のことだった。私がまだ旅行者で、一年に二度この町に足を運んでいた頃だ。店の中はいい匂いがしていた。微妙な匂いで、何の匂いとは例えがたい、鼻先をくすぐるような、心をくすぐるような匂いだった。何を買い求めるでもないが、この店に立ち寄るのが好きだった。その先にはカフェがあって、何時も客で一杯だった。其の数軒先にはカセットテープやら何やら、兎に角店は小さいくせに探している音楽が見つかる店があった。その筋向いほどのところに洒落た家具屋があった。スノッブな人たちが好んで買い求める店かと思えば、そうでない人にも人気で、店の名前を言えば誰もが、ああ、あの店はいいね、と言った。一様にして高価で、私はただの一度も家具を買い求めることが無かったけれど。家具屋の並びには欧羅巴からの輸入衣服を陳列する店があった。とても高いがセンスがいい。私はいつもその店を外から眺めるだけだったが、一度だけ店に入ったことがある。友人と一緒に。早い話が、友人の衣服の見立てに付き合ったのだ。友人が仕事用にと洒落た紫色の服を試着している間に、私はとてもシンプルな、クラシックな形のオーバーコートを見つけた。濃紺で、程よい厚みで、それでいて軽かった。ベルギー製だったと覚えているが、どうだろう。素晴らしさに感嘆はしたものの、私には上等すぎるような気がして手を放した。手のでない値段ではなかったというのに。友人は紫色の服がよく似合って、私と店の人にさんざん褒められて、上機嫌でそれを手に入れた。私にはそれで十分な気がしたのだ。なのに手を放してしまったオーバーコートのことは深く記憶に残った。アメリカを離れて、たったの3年後に、その町を訪ねた。ひと月ばかりいて、泊まりに来ないかと誘ってくれる友人の家を転々とした。そして私の毎日ときたら、散歩ばかりだった。いや、それが目的だったから其れで良かったが、町は随分と変わっていた。フィルモア通りのあの洒落た衣服の店はもうなく、私は何か取り残されたような気分だった。がっかりしながらなだらかな坂道を歩き、遠くに海が見えるところまで来たところで、私は傍に濃紺のオーバーコートを着た女性に気が付いた。それはあの、私は手を放してしまったものによく似ていた。肩のラインとか、襟の細い幅とか。ボタン、そうだ、ボタンだ。確かボタンに特徴があった、と私はさりげなく近寄って彼女の袖口のボタンに目を凝らすと、ふと彼女が振り向いた。眉を少し上げて、なあに? とでも言うように。私は今はもうなくなってしまった店にあった気に入りのオーバーコートの事を話した、非礼を詫びるために。すると彼女は更に眉をあげて、私はあの店でこれを買ったのよ、4年前に! と驚きの声を発した。4年前、そうだ、私があの店に初めて入ったあの年だ。ならば、此れがそのオーバーコートに違いなかった。ちょっと失礼、と断って袖口のボタンを見せて貰ったら、やはりそうだった。ぷっくりと厚みのあるボタンに、筆記体のブランドの名前が刻み込まれていて美しかった。私は手放してしまったけれど、彼女が手に入れた。髪をきゅっと結って知的な彼女に良く似合っていたから、私はそれで満足だった。

あの町を離れてもうじき20年だ。その間に町の様子は随分変わってしまった。私も変わっただろうか。多分そう。あの町に今も暮らす友人たちにすれば、私も随分と変わったに違いない。考え方や好みや、生活リズムや、口調にしても。それでいい。皆時とともに変化していく。そんな風に思えるのも、雨降りのせいだ。ほっと心落ち着く雨降りの夜。でも明日は晴れてくれると有難い。


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コメント

不思議で素敵なお話ですね。オーバーコートとの再会。
自分がいいなと思ったものを手に入れるのも楽しいけれども、それが似合っている人を見るのもまた楽しいですね。
私も街中で素敵な人を見るのが好きです。
そういう人と会話なんてできてしまったら、ものすごく幸せですね。

2015/01/24 (Sat) 14:16 | micio #O/XG6wUc | URL | 編集

こんにちは、yspringmindさん。
変わるもの、変わらないもの。
変わらないでほしいものは、いっぱいありますね。人としてのあたりまえなこと。景色や住む人は、どんどん変わっても。
なんだかなーと思うことが多くても、人として

2015/01/24 (Sat) 14:38 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

micioさん、こんにちは。不思議なことに時々で会います。私が欲しかったオーバーコートが誰かほかの人が纏っているなんて。不思議と嬉しくなりました。其れもあんなに素敵な女性が。あれ以来、此れだと思うオーバーコートには残念ながら出会っていません。
街を歩いていると素敵な人が目に飛び込んできます。それは大抵女性で、30歳くらいから80歳くらいまでと様々なのですが、自分と同じ女性が生き生きとしているのを見ると嬉しくなると同時に、素適と元気の薬を分けてみおらっているような気分になりますね。

2015/01/24 (Sat) 20:15 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、近西は。私が大好きだったあの町は、今は随分と変わったようです。あののんびりとした空気は、もうないのかもしれませんもの
私は街の様子と同じように人も変わっていく者だと思うのです。人の場合は、良くないほうに変化した場合、何かの拍子に気が付いて、意志的に元に戻ることがあるようです。私もそれを幾度も繰り返しました。街の場合は、そう言うことは無いのが少々残念と言えば残念です。

2015/01/24 (Sat) 20:19 | yspringmind #- | URL | 編集

こんにちは。
そうかー、まち街と人と違うのかも。それにしても、日本の変化は早すぎてわけわかりません。

2015/01/25 (Sun) 13:50 | つばめ #- | URL | 編集
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2015/01/25 (Sun) 14:07 | # | | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。私もね、思うのです。日本はテンポが早い、早すぎるみたいだって。

2015/01/27 (Tue) 21:34 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

鍵コメさん、こんにちは。私は良い素材でで飽きが来なくて長く使えるものが好きなのです。時には奮発することもあるのですが、自制することを忘れないようにしているのです。何しろ普通の人ですからね。ふふふ。気に入ったものに全て手をだしていたらきりがありません。だからと言って妥協することはせず。妥協するくらいなら購入しない。そう言う考えなのですよ。分相応。これは案外忘れがちなことなのですが、時々思い出すといいみたいなのです。それにしてもあのオーバーコートは本当に素敵でした。道で偶然見つけたあの女性はオーバーコートにぴったりの素敵さんだったので嬉しかったです。
鍵コメさんが町の在り方にきちんとした意見や首位層を持っていることに感激しました。そう、そうかもしれません。ただ、例えばヨーロッパの場合は町並みと言うものが大変重視されること、歴史を重んじること、歴史のあるものを大切にすることから、日本とは異なった街づくりの哲学を持っているようです。
渋谷は変わりつつあるのですね。今度帰省するときには渋谷が私の覚えている渋谷ではなくなっているのかと思うと、やはり少し寂しいです。

2015/01/27 (Tue) 21:50 | yspringmind #- | URL | 編集
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2015/01/28 (Wed) 02:05 | # | | 編集
Re: タイトルなし

鍵コメさん、こんにちは。そうですね、良いかどうかの基準はとても主観的なものかもしれません。10人居たら10通りの考えがあってもおかしくありません。例えばイタリアの古い建物は壁が分厚く大理石の床を持つために、熱い夏でも冷房を必要としません。これは一種の温暖化防止かもしれません。冷房機が排出する熱い空気は嫌いです。それから冷房機の冷たい空気自体も嫌いな私は、ボローニャの歴史的建築物が大好きなのですよ。
自動車の排気ガスについては、イタリアでも街に乗り入れる車を制限したり、冬場は曜日と時間を決めて車の制限をしています。これはとても不便でありながらも、環境保護には良いことと、多分誰もが思っている筈なのです。
お薦めの本、日本に帰った時に探してみます。教えてくださってありがとう。

2015/01/29 (Thu) 22:17 | yspringmind #- | URL | 編集

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