彼女のこと、雪のこと。

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彼女の存在を知ったのは8年くらい前だっただろうか。いつものバールでのことだった。私はバールに行き始めたばかりだったから、知り合いなどひとりも居なかった。彼女はこの近くに住んでいるからもう何年も十何年も、通っているようだった。だからバールで働く女の子たちも彼女の名前を知っていて、親しくしているようだった。彼女は何時も犬を連れていた。犬はカテリーナと言う名前で、初めて会う私にも笑顔ですり寄ってくるような犬だった。だから犬はバールの常連客たちにも人気で、カテリーナ、カテリーナと何時も声を掛けられて可愛がられた。彼女はイタリア人にしては控えめで、内気そうな女の子だった。女の子、と言っても彼女は既に女性と言っても良い年齢だったが、女の子と呼ぶ方がぴったりくるような印象だった。存在を知りながら話をしたことが無かったのは、彼女が内気で知らない人に声を掛けるタイプでなかったから、そして私よりも随分年下の彼女に声を掛ける理由がなかったからだ。
何年か前、誰かと立ち話を終えて独りぽつんと立っていたら、彼女に声を掛けられた。実に聞きとりにくい質の声だったから、何を言われたのか分からなくて、えっ、何? と訊き返さねばならなかった。でも本当の理由は、彼女が日本語で声を掛けてきたために、まさか日本語で声を掛けられるとは夢にも思っていなかった私の耳が言葉をキャッチできなかったのである。彼女はボローニャ大学で日本語を学んでいるのだと言った。始めはドイツ語をとっていたが、難しすぎたので日本語に変更したと言ったので、周囲にいた人たちが口を揃えて言った。どういうことなんだい。どう考えたって、日本語の方が難しいじゃないか。実は私もそう思ったのだが、多分こういうことなのだ。彼女の大人しい性格上、ドイツ語のような強い印象の発音が向いていなかったのではないだろうか。言葉には向き不向きがあると常々思っていた私である。事実、私もフランス語に幾度もチャレンジしたのに、あの美しい花のような発音と私の性格が上手く合わず、暗礁に乗り上げたままだ。こんなにもフランス語の美しい音が好きなのに。兎に角、彼女は私に関心があったらしかった。それで私をバールの中で見つけるたびに声を掛けて来るようになった。犬も私に関心があるようだったから、丁度よかったといえよう。知れば知るほど彼女が内気な性格であることが分かった。こんなに内気なイタリア人を見たことが無かったから、私は少々戸惑っていたのかもしれない。
その彼女がクリスマス前に私に言った。大学を終えて日本語を話す機会が無くなってしまったから、週末の午後にカップチーノでも飲みながら日本語を話す機会を作ってもらえないだろうか、と。それは内気な彼女にしては多分大変な勇気を要する言葉だったに違いなく、とても心配そうな表情をしていた。土曜日、土曜日の午後なら時間を作れる。そう言うと、表情がぱっと明るくなって嬉しそうに笑った。
そうして土曜日の午後に私達はバールで会った。大雨が降る中、傘を差してもずぶぬれになるような雨の中を歩いて。ああ、雨は本当に嫌よねえ、と言う私に彼女は言った。明日は雪になるらしい、と。そんなことは初耳だったので、まさか、と笑い飛ばしたけれど、一時間後、バールの外に出てみたら雪が降っているではないか。常連客の名前も知らない女性が、雪は素敵よねえ、と言うので、まさか雪は大嫌いだとも言えず、うーん、寒いけれどねえ、と言うと隣で彼女が笑っていた。ついさっき、日本語で、私は雪が大嫌いだと話をしたばかりだったからだ。また来週の土曜日に会えるかなと心配する彼女に、うん、来週は何も予定がないから大丈夫と言って別れた。私が彼女の役に立つとは、夢にも思っていなかった。人の役に立てるのは案外嬉しいものである。

昨日の雪は2時間もすると止んでしまったが、朝方再び降り始めたらしく目を覚ますと雪景色。窓辺で見る雪は確かに美しいが、できれば山の方だけに降っていただけると有難い。


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コメント

こんにちは。
言葉にも向いているとかあるのでしょうね。
その彼女が日本語を知りたいという気持ちがうれしいですね。

2014/12/29 (Mon) 00:07 | つばめ #- | URL | 編集

ふふ。お話相手が増えたのですね。ドイツ語より日本語なんて。。私も大きく納得です。私もフランス語がとても恋しい。

2014/12/29 (Mon) 06:50 | inei-reisan #pNQOf01M | URL | 編集

言語にあうあわないってありますよね。フランス語、わたしも興味あったのに全然だめだったなあ。イタリア語は発音しやすいイメージがあります。でも使う機会がない言語の習得は難しいから、まず無理だろうなあ。というようなことをぶつぶつ話していると夫に、英語をもう少しまじめに勉強してみたら、などど言われる始末です、苦笑。毎日仕事で使っていても、使う言葉が限られると、なかなか上達って難しいですよね。

前から興味があったのですが、yspringmindさんはイタリア語は超してから学ばれたのですか?

2014/12/29 (Mon) 07:13 | mk #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。言葉ほど向き不向きがあるものはないと言っても過言ではないかもしれませんよ。
それにしても日本語を学ぼうと思う人たちの心理、何時か分析してみたいです。

2014/12/30 (Tue) 16:13 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

inei-reisanさん、バールの人達は私達が彼らの分からない言葉で話しているのをとても興味深く思っているようです。どう聞き耳を立てたって、わかりませんからねー。
実は私、フランス語の音も好きなのですが、ドイツ語も好きなんですよ。かと言って、今のところ新しい言葉にチャレンジする予定は全くありません。

2014/12/30 (Tue) 16:17 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

mkさん、こんにちは。フランス語は発音が兎に角難しい。少なくとも私にとっては。イタリア語は仕組みが難しいけれど、発音は日本人向けだと思うのです。ローマ字。まさにそれなんですからね。独学できなくはないですよ。確かに言葉は使う機会がないと習得できないとか、感覚がつかめないとかがありますけれど。
私がイタリアに引っ越した時は、簡単な挨拶と、美味しい!と、冗談でしょう? それしか話せませんでした。始めの3か月間は英語を使っていたのですが、周囲の人たちが私と相棒が秘密の話をしているのではないかと思い始めたので、そして舅が3か月も経つのにイタリア語が話せないなんて君は馬鹿者なのかなどと言って私のプライドを酷く傷付けたので、その日からモーレツに勉強しました。学校は行きませんでしたが、ペルージャ大学で使っているというテキストと、テレビと隣近所の住人たちとの会話で勉強したんですよ。若かったから何でも可能でした。ははは。今だったら、そうは簡単にいかないでしょうね。

2014/12/30 (Tue) 16:27 | yspringmind #- | URL | 編集

素敵なお話ですね。イタリア人にもたまに内気な人もいますね。ボローニャ大学で日本語を学んでいる学生は優秀な人が多く、日本の文化に興味を持ち、お金を貯めて、いずれは日本に行きたい、と自分の夢の実現に向けて頑張っている学生が多いです。ボローニャ大学の卒業生から聞いた話によれば、ボローニャ大学で日本語を教えている先生はとても優秀な人らしいです。

それにしても、バールの人たちはお二人の会話に興味津々だと思いますよ。
italianaとgiapponeseが自分たちの解らない言語、日本語で会話しているのですから。バールの人たちは、一体何を話しているのだろうか、通訳してもらいたい、とそれ位興味を持っているかもしれません。

2015/01/02 (Fri) 10:58 | アルプス #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

アルプスさん、こんにちは。イタリア人でこれほど内気な人は初めてなので私は少し戸惑いましたが、しかし学んだ日本語を忘れたくない、話しをしたいと思う彼女の気持ちはとても積極的で、内気さと反比例しているなあと感心しているところです。ボローニャ大学で日本語を学んでいる人は沢山いるようですが、難しくて途中でやめてしまう人も沢山いると聞きました。ボローニャ大学で日本語を教えている先生はとても優秀、これは私も聞いたことがありますよ。
私達の会話に関心を持っている人達。沢山いるんですよ。ちょっと照れますよねえ、そんな人たちの中で日本語でお喋りをするのは。

2015/01/02 (Fri) 16:49 | yspringmind #- | URL | 編集

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