薔薇の匂い

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今日のボローニャは美しく晴れて、室内で仕事などしているのがもったいなくてならなかった。こういう日が土曜日に当たればいいのにと、幾度も残念に思った。青い空。暖かい日差し。もっとも朝の冷え込みはここ数日で一番だったけれども。アメリカではもうじき感謝祭で、それを終えると街の中心のスクエアに大きなクリスマスツリーが出現する。そうだ、私がいたあの町もそうだった。それを見ながら、ああ、12月になるのだなと実感したものだった。そしてスクエアに面した高級衣料品店アイ・マグニンの窓という窓に大きなクリスマスリースが掲げられると、クリスマスを迎える準備が出来た、と言う感じだった。
アイ・マグニン。この店の思い出は少なくとも深い。この店を知ったのは、私がまだ日本に暮らしていた頃。初めてこの町を訪れた時のことだった。私は英語をあまり自由に使えず、どこへ行くのも何処に入るのもおっかなびっくりだったから、元気に外を歩くのが専らのこの町での過ごし方だった。坂を上り下り、海を眺めながら散策して、そうして街の中心に帰ってきたら、この美しい建物に大変惹かれてどんな店であるかも知らずに吸い込まれていった。入り口の扉がとても重かった。地上階には美しい香水を置くカウンターがあり、大人の女たちが自分好みの匂いを探すのに夢中だった。その様子は私が見たどの店の様子よりも美しく、それはまるでヒッチコックの映画を思い出させるような空気が漂う世界だった。私はと言えば完全な旅行者姿で、全く場違いだった。そもそも子供が通うような場所ではないらしく、勿論既に成人になっいていた私ではあったけれども、しかし其れでいて此処の雰囲気に馴染むにはまだまだ時間が必要に思えてくるのだった。
4年後、私はその町に暮らし始めた。すべてを切り詰めての生活だった。母に一切の支援を望まないから、と言って家を飛びだした私だったから、贅沢は皆無だった。しかし、もしそんな約束をしていなくとも、私はやはりそんな生活をしていただろう。自分の人生は自分で決めると言って飛び出してきたから、母に経済的に助けてもらうなど自分のプライドが許さなかったからだ。貧乏生活とは言うが、心は豊かだった。自分が望んだ生活だ。辛い筈が無かった。思い切り勉強して、思い切り働いて、毎日街を歩き、友人知人と会い、私は幸せ者以外の何でもなかった。そのうち私は少し贅沢が出来るようになった。勿論友人のようにアルマーニでジャケットを仕立てるなんてことは出来なかったけれど、そして何かあるごとにフランス製の美しいレースの下着を揃いで購入するなんてこともなかったけれど。ある日、知人が私にこんなことを話したのだ。数日前に店に行って素敵な匂いを見つけた、と。店?どの店?と訊ねる私に、あら、香水と言ったらやはりアイ・マグニンよ、あの店が一番いい、と彼女は言った。あの店の売り子たちの躾けの良いし、客を素晴らしい気分に酔わせてくれるのよ、とのことだった。するとたちまち数年前あの店で目にした風景が蘇り、彼女が言わんとしていることが手にわかるような気がした。兎に角、素晴らしいの、ねえ、これから一緒に行ってみましょう。彼女は私を誘い、私はそんな彼女の言葉の魔法にかかって、再び店に足を踏み込むことになった。彼女が言っていた素敵な匂いに付き合って、あれこれ香水を観察した。匂いよりもクリスタル製の香水の瓶が目に美しかった。彼女が香水を購入している間に、私はその匂いを見つけた。柔らかな、甘すぎない、薔薇の匂い。小さな小瓶で100ドルほどもして、私を大変驚かせてくれた。躾けの大変良い売り子が来て、私の手首の内側に香水を小さく垂らしてくれた。優雅で、微妙で、夢の中に誘い込むような匂いだと思った。今日はそんな贅沢をしても良いかもしれない、と思いながら、ううん、此れはもっと先の楽しみにとっておこう、と思って店を出た。あの後店がクローズして、香水を手に入れることはついになかった。今はいくら考えてもどのブランドの何という名の香水だったかを思い出すことが出来ないけれど、私は今でもふとした拍子にあの匂いがふわりと周囲で蘇るような錯覚に陥る。何か良いことが起こる予感がする時や、私が心から嬉しいと思う時などに。
あの町からアイ・マグニンが消えてしまったことは時代の流れのひとつだっただろうか。個人的に言えば、あの店の存在はあの町の豊かさの象徴のひとつで、いつまでも存在していて欲しかった。だいいち、あの店を覚えている人がいったい幾人いるだろう。クリスマス前になって、あの美しい窓の飾りを思い出す人が、いったい幾人居るのだろう。今では隣の大型デパートメントストアに買い取られて、まるで昔からそうだったみたいな顔で居座っている。

我が家がクリスマスツリーを飾る日まで、残り10日間。今年は天辺に飾る星を購入し、今か今かと待ち遠しくてならない。幾つかのオーナメントも手に入れた。毎年少しづつ買い足すのが楽しみのひとつなのだ。金色に光るハミングバードの飾りをふたつ。相棒と私が仲良く生活できるようにと願いを込めて。


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コメント

時代の流れ、と言ってしまえばそれまでですが、
あるべきところにあるべきものがある、というのが徐々に消えつつある、
そんな気がします。これは日本国内でも同じだと感じています。
私が住む町内も、ある日突然建物があった場所が更地になっていることが
あります。でも、前は何が建っていたか記憶がないんです。
如何に日常、何も見ないで生きているかということの証明ですね(笑)

モノだけでなく、人の心もおそらくあるべき姿をどこかに忘れてきている、
そんな気がします。

2014/11/19 (Wed) 01:44 | ひろぽん #nEEbkvUM | URL | 編集

今年のクリスマスツリーは更に魅力的で楽しみなものとなるんですね♪
ハミングバードは夏場当地でもよく見かけますが、ユニークで魅力的な鳥。
今年から毎年クリスマスツリーに飾られるなんて素敵です。

花も他の香源も周りに無いのに、突然バラとか甘い花の香りがするときは
天使が側を通り過ぎたのだとも言われますね。
なんて素敵な発想でしょう ^・^

2014/11/19 (Wed) 06:42 | るみこ #- | URL | 編集

こんにちは。
お話しをわけてもらってありがとう。
そのときそのときで、たのしそうなyspringmindさん。自分で決められたのは何を置いてもかっこいいですよ。薔薇の香りがしてきそう。そこにいる気になりました。
こちらは今日久しぶりに暖かいお日さまで、ほっとしていました。布団干しました。

2014/11/19 (Wed) 08:18 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

ひろぽんさん、こんにちは。時代の流れと分かっていても、しかし、それが例えば自分が気に入っていた存在とか、街の人たちが愛している場所とかであると、淋しいものです。例えば私にとってはそれがアイ・マグニンでした。別の常連客でもなかったのに、いつもその前を歩くだけの通行人だったのに。
記憶というのは素晴らしいものです。存在しなくなっても人の記憶に住み着いている。テクノロジーものを覚えるのは苦手で覚えたと思った途端に忘れますが、自分が通過した時間の合間に見たもの経験したものは、あまり忘れることが無いようです。
変化が激しく在ったと思ったら無くなる世の中になりましたが、大切なことは忘れないでいたいですね。

2014/11/20 (Thu) 20:32 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

るみこさん、こんにちは。今年のクリスマスツリーはちょっと楽しくなる予定です。ハミングバードをボローニャで見たことはありませんが、サンフランシスコに住んでいた頃は良く裏のテラスにやって来ては目を楽しませてくれました。私にとっては幸せの象徴みたいなものです。
ところで、花も他の香源も周りに無いのに突然バラとか甘い花の香りがする時は天使が側を通り過ぎたのだ、って本当ですか。わあ、なんて素敵なんでしょう。それを知るだけで、幸せな気分になれますね。

2014/11/20 (Thu) 20:36 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。私は今までどんな時も自分なりに一生懸命考えて自分で決めて進んできたと思うのですが、そうすることが出来る状況であったことへの感謝も忘れてはいけませんね。家族が元気だったからこそ、私はそんな風に飛び出すこともできたのだと思います。
薔薇の匂いがふわりとすると、私はいつもあの頃に舞い戻ってしまうのです。もう22年も前のことなのですが。
こちら冬になりつつあります。ショートジャケットだと腰が冷えていけません。

2014/11/20 (Thu) 20:41 | yspringmind #- | URL | 編集

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