お洒落さん

金曜日だ。久しぶりに快晴で、実を言えば10月らしからぬ暖かい一日で、誰もが薄着になった。若者たちは半袖姿で、私のような寒がりさんは長袖のコットンセーターを着て、しかしいつもの丈の短いジャケットは着ずに手に持って。天気の良い日は夕方になっても空が明るいので気分がいい。其の上金曜日ときたら、これ以上嬉しいことは無いのである。長く、重い一週間だったから、金曜日の夕方がシャンパンの泡のように軽快に感じる。旧市街には人が溢れ、塔の下にはジェラートを美味しそうに食べる若者たちが一杯。私はその間を潜り抜けて、本屋の前を通過して、大通りを速やかに渡った。いつもの道のり。でも、天気の良い金曜日の夕方だから、すべてが美しく愉しく見えた。

そのままバスに乗って家に帰っても良かったけれど、吸い込まれるようにフランス屋に足を踏み入れたのは、店内に店主の妻が居たからだった。彼女が店で働くことは無い。彼女はこの近くに仕事を持っていて、仕事帰りに店に立ち寄ると客人のようにカウンター越しに注文すると、ひとりの客人としてワインを楽しむのだ。彼女と話をしたことは無かった。彼女は典型的なボローニャ人で、見るからにとっつきにくく、とてもプライドが高そうな女性なのだ。付け加えて言えば、彼女は大変お洒落で常に身なりが整っていた。何かきちんとした服装が必要な仕事に就いているのかもしれなかったが、しかし私は幾度か店主から聞いて知っていたのだ。僕は本やワインのコレクションに場所とお金と時間を使うけれど、妻のあの大きなクローゼットの中にしまわれている恐ろしいほど沢山の衣服に比べたら可愛いものさ。何時だったか店主がそう言ったので、確かにあなたの奥さんはいつも素敵な装いだと私が相槌を打つと、でも君、その数の凄さと言ったらね! しかもそれでも充分ではないらしく常に数が増えていくんだ、と目をぐるぐる回して私を大変笑わせたものだ。さて、私が店に入ったのはそんな彼女が今日もまた素晴らしく素敵だったからだ。襟足を短く切った彼女の髪型がとても似合っていたし、日本でならこの年齢の人が着ないであろうシンプルで快活な短い上着、足首の見える細身のパンツに踵の低いシンプルな靴。突飛おしもない色はひとつもなく、爽やかで彼女の感じにぴったりだった。幾度か彼女を店で見掛けたが、一度だって声を交わしたことは無かった。そもそも私は彼女と話すことは期待していなかった。典型的なボローニャ人はよそ者に分厚い壁があることが多いからだ。店では店主がフランス語で電話をかけていた。何やらレストランの予約の為らしかったがフランス語とはどういうことだ。そんなことを思いながら注文したワインを頂いていると、店主は受話器を置いて首を振った。駄目だ、予約はいっぱいだと言って断られたよ。それを聞いて私は驚いた。今の時代に予約が一杯のレストランって一体何処なのだろう、と。すると店主と妻がにっこり笑ってパリのレストランの名前を言った。明日からパリに行くこと。パリでも有名な料理人が居るレストランへ行きたかったこと。パリへ行くと言ったって、土曜日に飛んで月曜日には帰ってこなければならないこと。週末をパリで過ごすと言ったって、ロマンティックなことなどない。店の為に大きな見本市を見に行くこと。彼らは聞きもしないのに次から次へと話してくれた。それは恐らく、彼らが週末のパリ行きを、店の為と言いながらも僅かながらも楽しみにしているからに違いなかった。こうして私は店がオープンして2年経つ今やっと店主の妻と話をしたのである。彼女は一見とっつきにくい不愛想な感じの人。しかし一旦相手に気を許すと、少しづつではなく、一気に扉を開けて親しくなるタイプらしい。店主が忙しくなって私達の前から姿を消しても、彼女は相変わらず私を相手に話し続けた。私がボローニャに暮らし始めた当時、この場所は靴屋だったというと、彼女は、そうよ、そうよ、よく覚えているわね、と喜び、その後一瞬無名ブランドの化粧品店が入ったけれど長続きしなかったというと、そうね、あれは良くなかったわね、といい、私達は互いに、よくもまあ、こんな昔のことを覚えていると思いながら、次から次へとこの界隈の変動を話し続けた。それで分かったのは、彼女が沢山のことに関心を持っていること、女同士のお喋りが好きなこと、ひょっとしたら同世代であること、それから、やっぱり店主が言ったようにお洒落が大好きなこと。そのうち彼女の兄弟が来て、彼女は私に良い週末を、と言って店から出て行った。とても良い感じの人。賑やかで楽しい。私は店主に彼女の印象を述べると、店主は苦笑しながら、うんうん、と頷いた。全く賑やかで楽しいのさ、と。私は女性とのお喋りが好きだ。特に彼女のような、一気に心の扉を開けてさっぱりとした口調で話をする女性とのお喋り。今日の私は全く幸運だったと言ってよかった。

気がつけば夜になっていて、町には橙色の灯が燈っていた。中世に戻った錯覚に陥る瞬間だ。私が大好きな瞬間だ。


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コメント

楽しそうですね。フランス屋にいるような気分になりました。おしゃれさんでもしゃべりやすい人でよかったですね。橙色の明かりはあたたかいでしょうね。

2014/10/18 (Sat) 16:24 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。店主の妻とこんなに楽しく話が出来るとは思ってもいなかったので、ご機嫌です。彼女の装いは、町を歩いているとちょっと人目を惹くのではないでしょうか。ボローニャの人はそれほどお洒落ではない、と言うのが私の感想なのですから。

2014/10/18 (Sat) 20:50 | yspringmind #- | URL | 編集

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