デリカテッセン

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ふと、思い出した。私がアメリカの海のある町に暮らし始めた頃のことだ。その町には暮らす前から少しばかりの知人がいて、知人夫婦はまるで私を遠い親戚の娘のようにあれこれ世話をしてくれた。そのひとつが彼らが暮らす家から直ぐそばに在る店だった。ある日私はちょっと遊びに来ないかと誘われて彼らの家に行ったところ、近所の店に連れて行かれた。行った先は大通りに面した、わりと大きなデリカテッセンで、店の半分にはワインやビールと言ったアルコール類や缶詰、瓶詰が置かれていた。いや、その反対かもしれない。あれは酒屋みたいなもので、その片手間にデリカテッセンをしていたのかもしれない。店主は既に引退してもよさそうな年のアイルランドからの移民のおじいさんで、やあやあ、こんな若い子に来てもらえるなんて嬉しいねえといってあけっぴろげに喜んだ。どうやら私がこの店で働くという話らしく、話しは既に固まっているようだった。私にはyesも noも言うチャンスはなかった。そもそも英語がろくに話せぬ私にどんな仕事ができると言うのだ。私にとってはそこで働くとか何とかよりも、言葉、それが一番の問題だった。相手が言っていることは分かれば大丈夫。だいたい、言葉なんてものは使って学ぶもの、使ってやっと価値あるものなのさ、と店主は明日からよろしくと私の手を両手で握った。まあ、私には暫くすることが無かった。丸々ひと月、何もすることが無かったから、折角だからと話に乗ることにした。時給は5ドル。10時から14時まで。忙しいことは無く、むしろ暇で時間をつぶすのに困ったほどだ。私がすることはデリカテッセンのガラスケースのむこう側に居ることで、近所の人たちがチーズやハムやあれこれをスライスしたり持ち帰りのプラスチックの入れ物の中に入れて重量を計って会計を済ますという、言葉にしてみると簡単な仕事だった。ところがその中にはサンドイッチを作るという仕事も含まれていて、客の注文に従ってパンを選んでハムを選んでチーズを選んで野菜を切って様々な香辛料やソースを入れて、と面白そうに聞こえるが、私には実に困難な作業だった。初めてのサンドイッチはあまり分厚くて客が笑ったくらい不格好だった。店主は横で苦笑していたが、別に文句を言うでもなく、大サービスだな、などと言って店に居る客たちを笑わせた。あれは実に恥ずかしい瞬間だったが、今思い返してみると店主の気の利いた一言で店の仲が和やかになって、あれでよかったのだと思う。何しろ私はサンドイッチひとつに時間が掛かって、客が怒り出すのではないかとはらはらしていたのだから。そのうち私の不恰好なサンドイッチはその辺りの人気者になり、と言うのもふんだんに中身が入っていてお買い得と言うことなのだけど、サンドイッチを買いに来る客が多くなった。何しろ中身を沢山いれたから儲けが増えたかどうかは疑問だけれど、でも客たちはついでにあれこれ買い物をしていくから、店主はとても機嫌がよかった。だから、ひと月を終えてアルバイトを辞める日がきた時、店主は何とか私に継続してくれないか、例えば週末だけでいいのだから、と私を口説いたけれど、私は週末に仕事をしたくなかったし、この仕事は私に不向きだと思ってもいたから、ひと月の間どうもありがとう、と綺麗に立ち去ったのだ。翌月のハロウィーンの晩、店の前を通りかかると店に電気がついているのを見つけた。こんな時間まで開いているとは知らなかったので驚いたが、店主は家に帰っても誰もいないから遅くまで店を開けているのさ、とのことだった。そしてこう続けた。君が辞めた後、客たちがあの東洋の女の子はどうしたんだ、としつこいんだ。僕が意地悪かなにかをして辞めてしまったんじゃないかと。そうして言うんだ。あの女の子のサンドイッチは大きくてよかったのになあ、と。私達は互いに顔を見合わせて、あははと大きな声で笑った。あの大きなサンドイッチ! 店主が作った其れの1,5倍はあった大きなサンドイッチ! また遊びに来るから、と店主に約束をして別れた。でも、其れきりになった。私はその後、知人夫婦と考え方の相違やちょっとしたルール違反で付き合いが無くなり、彼らが暮らすあの界隈に足を運ぶことが無くなったからだ。でも、忘れたことは無かった。あれはなかなか良い経験だったのだ。店主は私に、多少ながらの自信を与えてくれたのだと思う。あれから23年も経った。店はもうないだろう。それとも息子か何かが継いだのかもしれない。

雨は降らぬが湿度の多い一日。考えてみれば、ボローニャの秋とはいつだってこんなだった。山の方では枯葉が湿っていることだろう。その合間に、キノコやトリュフが隠れているのかもしれない。暫く山を訪れていないけれど、来週あたりちょっと足を延ばしてみようか。木の葉がすっかり色づいているに違いない。


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コメント

あたたかいお日さまを感じるいい色の写真ですね。めずらしいですね、窓の影?とは。

2014/10/13 (Mon) 16:12 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、ボローニャの旧市街を歩いていると時々窓ガラスの反射によって作られたもうひとつの窓と見つけることが出来るのです。壁の色が暖かい色なぶんだけ、暖かい印象を得るのです。こういうのを見つけると嬉しくなります。

2014/10/13 (Mon) 21:44 | yspringmind #- | URL | 編集

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