遠い昔のこと

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嫌な予感がした。それは聞きなれた音で、しかし嫌いな音だった。見上げると、案の定天井の辺りを虫が飛び回っていた。親指の爪ほどの大きさの、緑色の虫。其れを私は亀虫と勝手に呼んでいるけれど、実際亀のような形の虫だった。酷く臭い虫で指で触ろうものなら、指先が臭くなってどうしようもない。石鹸で洗ってもとれないくらい臭いから、近寄らないに限るのだ。間違って踏み潰そうものならば、それはもうこの世の終わりのような臭いである。その亀虫が家の中に居る。ああ、何ということ。亀虫を嫌う人は沢山いる。誰も正式な名前で呼ばない。愛情をこめて眺める人もいない。大抵眉をしかめて、あの臭い奴、呼ばわりだ。きっと虫の世界でも、臭いな、お前、と嫌がられているに違いない。そう考えると少々不憫なのだが、同情している場合ではない。さっさと家の中から追い出すのが賢明というものだろう。

亀虫を初めて知ったのは、私がボローニャに引っ越してきて2か月ほどたってからだ。相棒と私は旧市街に暮らす知人のところの居候生活を終えて、やっと腰を据えて生活し始めた。と言ってもやはり居候なのだが、ボローニャ郊外の田舎の家の一角を相棒の知人に貸して貰い、自分たちの荷物をやっと解いて自分たちのペースで暮らせるようになったのである。兎に角凄い田舎だった。日本でも私は田舎で生活をしたことがあるが、それとはちょっと比較にならないほどの田舎だった。そういう場所の夏は虫との共存と言うのが正しく、虫が嫌いな私には辛い毎日でもあった。真っ暗になってから見る蛍の光だけは別にして。そして何が嫌って亀虫だった。此れが飛んでくると大騒ぎだった。こんなことくらいで大騒ぎをしていたら、此処では生活できない、と知人家族は笑ったが、そういう彼らだって亀虫が飛んでくると、近寄るな、こっちに飛んでくるな、と私以上の騒ぎだった。私はこんなに虫がいる生活は馴染めない。何度も何度も考えたけど、しかし腰を下ろして生活する場所があるだけでも有難くて、ついに誰にも言えなかった。ある日、知人家族と無農薬のプルーンを摘んだ。大きな籠に何杯も。そうして大鍋でぐつぐつ煮て、ジャムを作った。聞くと楽しそうなそれは、やってみると案外大変な作業で、大汗をかきながら柄の長い木製のスプーンで鍋の中をかきまぜた。出来上がったジャムはとても美味しかったけれど、食べ終えてしまうと大変だった思いだけが残った。あの家で暮らしていた頃、私はあまり幸せでなかった。だからイタリアに来たことを後悔して、ボローニャに居ることを不運に思って、喜びを見つけることも、感謝することも忘れていたようだ。本当は、あれはあれで大変貴重な経験だったし、快く受け入れてくれた人たちがいるだけでも大変な幸運だったのに。今の私ならば、もう少し生活を楽しむことが出来たはずなのに。私は亀虫を見る都度、あの頃のことを思い出す。

旧市街を歩いている時にも思い出す。同じ道を歩いたはずなのに、あの頃の私はボローニャの素敵を見つけ出すことが出来なかった。今では大好きなポルティコも、単なる閉塞感の象徴に思えてならなかった。相棒が、美しいボローニャ、と言う度に、そうかしらと思ったあの頃。そうね、美しいわね、と返答しなかった私を相棒は悲しく思ったりはしなかったか。遠い昔のこと。でも、19年も経った今頃になってそんなことを考えては、子供っぽかった自分を残念に思うのだ。


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コメント

また随分ご無沙汰してしまいました。
この亀虫、去年から随分増えたような気がします。私の住む町の話ですが。ところでこの蒸し煮はいろんな種類のがあって灰色から緑色まであるらしいです。

ところで今年の秋はお天気が続くと良いですね。そうでないとせっかくの葡萄達が台無しになってしまうでしょう。おいしいワインの年になりますように。この秋ピエモントとトスカーナを駆け足で訪れます。

2014/09/08 (Mon) 16:01 | basilea #dgEWJwcw | URL | 編集

自分のタイミングなのかう合う街、なにか違うなと思う街が私にもありました。通り過ぎるだけなら気が楽なのですが、住むとなると話しは別だなというときがありました。自分が大丈夫と思って飛び込んだ場所でも。なんなんでしょうね。

2014/09/08 (Mon) 16:35 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

basileaさん、こんにちは。亀虫、本当に沢山いますね。今住んでいる界隈は市街地ですが緑が多いために亀虫が想像していた以上に存在します。確かにいろんな色のが存在するんですよね。枯葉色とか真緑とか灰色とか。しかしどれも臭い点では共通しています。
この秋ピエモントとトスカーナを駆け足で。お仕事ですか。休暇ですか。どちらにしてもその季節のピエモンテとトスカーナは魅力的ですね。今年は太陽不足なので葡萄はどうかしら、と思っているところです。旅行中はお天気に恵まれますように。

2014/09/08 (Mon) 22:58 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、一瞬通過するだけならば楽しいことにばかり目が行って、すべてが素晴らしく見えるもの。其れが腰を据えて暮らすとなると、話しが少々違ってきます。私の場合、それがボローニャでした。最近ようやくボローニャを自分の町として愛着を持てるようになりましたが、しかし、時間が掛かりました。

2014/09/08 (Mon) 23:02 | yspringmind #- | URL | 編集

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