あの夏

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山の方で雨が降ったのかもしれない。朝から涼しい風が吹き、ふとした拍子に9月になってしまったような錯覚に陥る。ほんの少し切ない風。乾燥しきった庭の木の葉をかさかさと揺らしながら通り抜けていく。今朝、海へと発った友人家族はどうしているだろう。思いがけず涼しくてがっかりしていなければよいけれど。風で波が荒れていやしないか。海辺に赤い旗はないだろうか。波が荒れている警告の赤い旗を海辺で見つけた時の落胆と言ったらない。ふたりの子供を喜ばせるために海の家を2週間借りた友人夫婦だ。せめて彼らのアドリア海だけは素晴らしい夏日であればよいと願う。小さな女の子が海辺で愉しく過ごせるように。思春期の男の子が両親と一緒に夏を愉しく過ごせるように。

ボローニャに引っ越してきたばかりのあの夏、相棒と私はトスカーナ州の海の町、フォルテ・デル・マルミに暮らす友人の家族を訪ねた。友人とはその一年前に急に逝ってしまったブリジットで、私達は元々一緒に暮らしていたし、私達が結婚してからは隣のフラットに移って良い近所付き合いをしていたから、イタリアからやって来た両親とも面識があったのだ。アメリカに娘を訪ねてやって来たはいいが英語が分からなくて悶々としていた彼女の両親に、時々イタリア語の新聞を買ってきて差し入れしたり、時には彼女の母親の美味しいイタリア料理をご馳走して貰ったり。私はイタリア語が分からなかったから、私と彼らの意思の疎通は皆無だったと言って良かったが、しかし互いに悪い印象はなく、また会いましょうと言って別れたのだ。ところが後にブリジッドが逝ってしまい、皆どうしてよいかわからずに月日が経った。私達がイタリアに引っ越しをする、コンテナを借りて家財を運ぶことを伝えると、娘が大切にしていた数々を一緒に運んでくれないかと頼まれて、それはお安い御用と私達は彼女が大切にしていた物や、彼女が家族に渡したかったであろうものを引っ越し荷物に加えたのだ。だからフォルテ・デル・マルミに向かう車の中にはブリジットのものが一杯詰まっていた。既に枯れた色を帯びたひまわりの大群を左手に眺めながら、私達はイタリアの西側にある海を目指して走った。相棒はその辺りをよく知らなかったから、ブリジットの父親がカッラーラの何処かまで迎えに来てくれた。父親の古いルノー。そう言えばブリジットから話を聞いたことがあった。父親が誰が何と言っても古いルノーしか乗らないこと。もっといい車が沢山あるのにねえ、と。だからカッラーラで待っていた古いルノーを見てすぐに分かった。あ、ブリジットの父親の車だ、と。幾度も道を間違えたので、両親は待ちぼうけていた。一緒に昼食を楽しみましょう、と言うことで母親が腕を振るってくれたと言うのに。日本人の私が好きに違いないと思った母親が、美味しいリゾットを用意してくれていたと言うのに。ボローニャなんて遠いところから娘のものを届けてくれるのだからと、両親は空いたお腹を宥めながら私達を待っていてくれた。ブリジットの気に入りだった椅子。沢山の写真。それから、それから、思い出せぬほど沢山のもの。本当はもっと美味しく頂ける筈だったのだけどと言いながら、リゾットを皿に盛り、この場に娘が居たらばどんなに良かったでしょうと言いながらグラスに冷えたワインを注ぎ、それでもボローニャから来た私達の為に、イタリア生活を始めた私達の為にと言って乾杯してくれた。そのあと私達はブリジットの親戚を訪ねた。面白いことにブリジットには大変仲の良い叔母さんが居て、私達のことをよく話していたらしい。だから私達が来ると知って、是非会ってみたい、しかし仕事の手が離せないから来て貰えないだろうか、とのことだった。岩の山をひたすら上ったところに彼女は居た。叔母さんと言ってもブリジットと10歳ほどしか違わぬ若い叔母さんだった。だからとても気が合って様々な話を交わしたらしい。叔母さんはその山の上でパンを焼いていた。家族でパンを焼いてレストランや店に卸しているのだと言った。美味しいのよ、といって薪が燃える窯から出したばかりの熱々を切り分けてくれた。それはこの辺りでスキアッチャータと呼ばれるオリーブオイルと塩味の美味しいパンで、熱々のそれは彼女が自慢するだけあって確かに美味しい、ボローニャでは食べることのできないパンだった。私達に遂に会って彼女は嬉しそうだった。あなた達のことはよく聞いていたからと、と言って抱きしめてくれた。昔モデルをしていた美しいブリジットをほんの少し年をとらせたのが叔母さんだった。金色の長い髪を無造作にまとめて無心にパンを焼く彼女。ブリジットは彼女に私達のどんな話をしたのだろう。
折角フォルテ・デル・マルミなどというシックな海に行ったのに、私達は海辺も見ないで街を後にした。早くボローニャに戻らねばならぬ理由はなかったと言うのに。

19年経ってもフォルテ・デル・マルミの海を訪れていない。何か、そっとしておきたいような気がして。


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コメント

人との別れ、切ないですね。。。。いつか、宝物の箱を開けたくなったら、ブリジットさんのご両親や叔母さんを訪ねてみるのもいいかもしれませんね。きっと喜んで迎えてくれる気もします。。。。

2014/08/14 (Thu) 10:55 | サンジ #- | URL | 編集

いい思い出のお話を聞かせてもらってありがとう。

まだまだバカンスが続いてるんですね。みなさん、真っ黒に日焼けして戻ってくるのでしょうかね。今年はどうでしょうね。こちらも雨が多くて草が喜んでいます。

2014/08/14 (Thu) 14:22 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

サンジさん、こんにちは。人とのそんな別れはいつも辛いです。そんなこともあって、私はイオニア海に足がなかなか向かないのです。素適な海辺が沢山あって大変魅力的なのにね。そう言えば彼女が逝って丸20年が経ちました。早いものです。

2014/08/14 (Thu) 22:39 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、お話聞いてくださってありがとう。
私の夏休みは24日までなのですが、なんと楽しい予定がひとつも! ありません。何てことでしょうか。そう言えばこんな機会に勉強などするのも良いかもしれな、と今気がつきました。
今夜は涼しくて20度以下になるそうです。8月にしては涼しすぎます。

2014/08/14 (Thu) 22:42 | yspringmind #- | URL | 編集

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