生ぬるい雨

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7月最後の一週間。其れもわずか5日間で、あっという間に8月に入る。それなのに実感があまりないのには理由がある。ひとつはあまり暑くないこと。ひとつは月の初めに引っ越しなどして生活が安定していないこと。そして最後のひとつはあと10日ほどで16日間の休暇を迎えると言うのに、今年に限っては何の予定も立てていないこと。家を購入するときに、この夏の休暇は何処へも行かずに家の中を住み易く整えることにしましょう、と言ったのは相棒ではなく私だった。格好つけたわけではなく、本当にそう考えたのだ。君が休暇に旅をしないなんて、本当に大丈夫かなあ、我慢できるのかなあ、と周囲が案じた。勿論よ、と胸を張って答えたものの、この頃になって自信が無くなってきた。うーん、駄目かもしれない。かと言って、すぐに認めるのも悔しい。もう少し頑張ってみようと思う。それにしたって予定のない夏休みは、張合いがない。それだけは確かである。来年は早めに航空券とホテルを手配して、休暇を指折り数えて待ち焦がれようと思う。

夕方、職場を出る小一時間前に大雨が降った。それはいきなり、と言うのがぴったりの、大粒の生ぬるい雨だった。そんな雨は珍しくて、私は仕事もそっちのけで窓の外を眺めていた。あの日もそんな雨が降った。私がアメリカの海のある町に初めて訪れたあの旅の途中に降った雨。私は英語が好きと言いながら、全然と言って良いほど話せなかった。それでいて一人旅で、何か無防備で準備不足な感じの旅だった。旅と言ってもほんの一週間ほどだった。だから、万が一旅が楽しくなくても、ぎゅっと目を瞑っていればすぐに家に帰れる、そう思っていた。ところがその町は私の感覚を強く刺激し、と同時に自分に似た、いわゆる似た者同士的町であると感じ取った私は、一瞬のうちに恋をした。私が町に恋をして、町が私を捕まえて離さなかった。見知らぬ町。見知らぬ人々。それなのに自然に私の中に入り込んでくる。ある日の午後、急に雨が降った。8月下旬の、妙に空の機嫌が良いと思っていた日だったので、突然の雨が人々を酷く戸惑わせた。激しいと言うよりは単に大粒の、天からぼたぼたと落ちてくる雨だった。人々は四方に散らばって雨宿りをした。私は坂道に面した古い雰囲気の本屋に飛び込んだ。今思うと、その辺りがちょうど、ヒッチコックの映画に出てきた古い書物を置く店だった。鳥、と言う名の映画を見たのはその旅行の後だったから、飛び込んだ時には知らなかった。もっとも飛び込んだ店は映画に出てくるような由緒ある本屋ではなかったが、多分場所はおよそ、その辺りだった筈だ。本屋には案外多くの客がいたが、私のような雨宿り客などいないようだった。いかにもこの町に暮らす本好きたちと言った風で、異端者に違いない私は少し居心地の悪い思いをした。私は彼らの邪魔をしないように奥の写真集の本棚を眺めた。白黒写真の写真集の中に、この町の写真が幾枚かあるのを見つけて心を躍らせた。初めてきた町なのに。知らない町なのに。私は何故か自分の町の写真を偶然写真集の中に発見したような錯覚に陥って、驚き、戸惑い、そしてこの奇妙な感覚を喜んだ。それは何か小さな扉が開きかけているような感覚で、それが私の人生が、この町へと続いているのを感じ取った瞬間だった。私は写真集を棚に戻して店を出た。まだ雨は降っていたが空は晴れはじめていて、空から落ちてくる雨粒がきらきら光って見えた。私は雨の中を歩き始めた。町の人達がそうしているように。生ぬるい雨が空を見上げる私の額を濡らして、それが瞳へと流れ、そして頬を伝わって地面に零れ落ちた。まるで私の涙のように。あれは雨粒だった筈だけど、私の喜びの涙だったかもしれない。何かが変わっていく良い予感。私は雨に濡れながら坂を上った。
人生とは不思議なものだ。思い通りに行かないことが沢山あるのに、上手くいく時は案外水が高いところから低いところに流れるように、又は麦畑の麦が大風に波打つように簡単に事が進む。私のアメリカへの路もそんな風だった。あの日から何年かの歳月を経てあの町に暮らすようになった日、私はあの雨の日と想っていた。この町へと続いている私の路のことを。私はあれから相棒に出会って道が大きく方向転換してしまったけれど、それも良し。流れに逆らうのも良いけれど、流れに身を任せるのも良いだろう。

生ぬるい雨は30分ほどで止んで、再び太陽が顔を出した。驚いたことに雨が降ったのは実に職場の頭上だけで、少し先では降った痕すらなかった。雨は、私にあの日を思い出させたかったのかもしれない。きっとそうに違いない。


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コメント

読ませてもらったあと、船の上に転がって夕日を見てるような、心地よいお話だなと勝手に思っています。
光が珍しい写真ですね。

2014/07/29 (Tue) 13:39 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、こんにちは。素適な感想、ありがとうございます。船の上に転がって夕日を見てるような、とは素敵な表現ですね。写真、いつまで経っても腕が上がりません。

2014/07/29 (Tue) 22:43 | yspringmind #- | URL | 編集

なにかが始まりそうな素敵な写真です。

2014/07/30 (Wed) 00:27 | つばめ #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

つばめさん、あなたの直感はいい線いっています。此れは明日へと、未来へと続く道、言い換えれば希望の道なのです。

2014/07/30 (Wed) 22:16 | yspringmind #- | URL | 編集

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