緩い風

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緩い風が吹く午後。そんな時、私はいつも同じ情景を思い出す。坂をのぼりつめた道の真ん中に立って見た遠くの海。遠くと言ってもそこから坂をまっすぐ下って行けばたどり着ける程度の距離で、歩いて30分もしないはずだった。海のある町に暮らすのは生まれて初めてのことだったから、私は海を見るたびに深い感慨を覚えた。海は私の憧れだったのかもしれない。それほど強く欲したことはなかったが、こうして海を眺めるたびに心の底から熱いものを感じると言うことは、ただ単に自覚がなかっただけで、私はずっと海を求めていたのだろう。坂の上は海風の通り道。いや、坂の上と言わず、この町には海風が充ちていた。それは時として気持ちがよく、時として首周りを脅かすような冷たい風で人々を驚かせた。私がアメリカのこの町に暮らそうと思ったのは、例えば夏の早朝の軽快な空気、誰もが自分を構うことなく自分が自分で居られること、知らない同士なのに挨拶を交わすこと、そんな他の人にしてみればどうでもよいことばかりだった。そして、先が見えぬほどの濃い霧ですらも恋しいと思う程、ぞっこんだった。幾つもの困難があったが、自分の人生を自分で切り開かずしてどうしよう、と何もかもを後にして飛び出したことを今も後悔はしていない。一生に一度くらい、そういうことがあっても良い。そうしてここにやって来て、全てが全て夢に描いていたようなことばかりでなかったにしても。自分が冒険をする勇気を得たこと、冒険することを遠巻きに応援してくれた家族がいたことを今でも幸運だったと思っている。私は坂の上から海を眺めるたびに、この町に暮らすことが出来たことのほかに、そんなことをいつも考えていたようだ。それは何時の日か私の記憶の引き出しにしまい込まれて、気持ちの良い風が吹くたびに思い出すようになった。例えば今日の午後のように。

坂を下っていくと埠頭があって、其処には旧海軍の施設があった。其れらは既に民間化されていて、個別に売り出されたか貸し出されたかしていた。私が好きだったのはその中の一角を占める自然食レストラン。GREENSという名のその店をこの町に住み着く数年前から知っていて、町を訪れる度に足を運んだが、そう言う訳でその町に居る人ならば知らない人はいなかった。海側は全面がガラス窓で開放的だから特等席と言って良かった。貧乏だったから夕食時に足を踏み入れたことはついに一度もなかったが、その分昼間の明るい雰囲気を存分堪能した。私は簡単な昼食や、午後のカフェに時々来た。大抵は自分へのご褒美だった。高価な褒美は買えないからと。レストランの中にはタサハラベーカリーのパンが置かれていた。其れだけを買うためにやって来る人もいるほど、美味しいパンだった。何時の日か私もそれを真似して、ちょっとタサハラベーカリーのパンを、と店に立ち寄るようになった。そのうち相棒と出会い、相棒の家に遊びに行くようになると気がついたのだ。2ブロック先の角にタサハラベーカリーがあるではないか。パンを販売するだけでなく店内でコーヒーなどを楽しめることもあっていつも満員だった。満員だから誰もが相席で、ひとりでテーブル席を占領するなんてことはあり得なかった。そのうち私は結婚して相棒の家に暮らすようになると、タサハラベーカリーの存在は実に大きく、この店に立ち寄らない日は数えるほどしかなかった。店に行けば気の知れた仲間の誰かに必ず会った。だから静かに新聞を読みながら朝食などしている場合ではなかったけれど、それはそれで大変楽しい朝の始まりだった。じゃが芋を練り込んで焼いたポテトブレッド。大きくて、弾力があって美味しいと、私達仲間の間では一番の人気だった。此れを購入するためには焼き上がる時間をめがけて店に行くこと。それとも店の人にこっそりと確保してもらうこと。ただ、店には十何人というアルバイトを含めた店員がシフトを組んで働いていたから、それは実に難しい技でもあった。私と相棒がこの町を離れると決めた時、私達には少しながらもいくつかの心残りがあった。そのひとつがタサハラベーカリーで、そのひとつが私達を取り囲む仲間たちで、そして100も1000もあるだろう坂道で、一年中冷たくて泳ぐことなんか出来ない海だった。私達が町から離れて数年も経たぬうちに、タサハラベーカリーはその場所から去ってしまった。後にはフランス風のカフェが入り、長年の常連もこの界隈に足を運ばなくなった。

緩い風に誘い出されたかのように、するすると記憶が蘇る。私と相棒はボローニャに来たことを決して後悔などしていない。でも、私達はまだ夢を見ているのだ。いつかまた、あの海のある町に暮らそう、と。10年先かもしれないし、もう少し先かもしれないけれど。気持ちの良い海風が町中を駆け抜ける、あの町にもう一度暮らそう。
夏のような暑い午後の、緩い風に吹かれていると、すべてが可能に思えてくる。


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